2011年12月31日土曜日

Now's The Time!

映画“幸せの経済学”を見た。

中で印象的だったのは、デトロイトで主要産業の自動車工場がリーマンショック後軒並み撤退した後、仕事を失って食べるに困った住民たちがとにかく身近な土を耕し、食べ物を自分らで作ることから始めたというエピソードだった。
そして住民どうし互いに作物を分けあい助けあうということが自然と行われるようになったという。

キューバでも冷戦終結後、ソ連からの経済援助が途絶え、アメリカからは経済封鎖されるという絶体絶命の状況下で、国を挙げての食料生産、それもなるべく金をかけずに地力を循環活用させた有機農業で食料自給体制を確立したことはあまり知られていない。


窮地に追い込まれた一地域の住民がまず考える“どうやって食べていくか”。

このシチュエーションこそが問題解決のスタートラインであり、誰もが(少なくとも精神的に)この境地に立ってまずはこの命題から動き始めることが求められている。
そしてそれぞれが生きる場としての“地域”ということを考えなければならない。

これが映画のテーマ“ローカリゼーション”、“ローカルフーズ”ということだと思う。


じつはものすごくシンプルなことなのだけど、われわれ現代人はなかなかここに立ち返ることができない。
都会生活、消費社会のaddictionは強力で、いったん染みついたら抜け出すのは非常に困難だ。


そこでデトロイトやキューバの事例は大いなるヒントになる。
危機的状況というのはある意味チャンスなのだ。

誰もがいま一度われわれの置かれた状況を正しく認識し、覚悟を決めて“降りていく(downshift)”こと。


気づいた者はいち早く故里に戻り、あるいは自分の場所を見つけて、力を抜いてやれる範囲のことをやっている。

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2011年12月25日日曜日

自分なりの総括④

チェルノブイリ周辺の村の人たちが強制移住をかいくぐって、あえて汚染されたもとの土地に帰ってきてしまったという話。
暮らしとは何なのか、とても考えさせられる。

移住先でストレスを抱えたというのも、新しい土地に馴染めないというだけでなく、ふるさとを離れることによるアイデンティティの喪失が大きいのではないか。
若い人はまだしも、長年同じ土地に暮らしてきた老人たちにはそこでの時間の蓄積がある。
記憶、思い出はそれを経験した場所というのが大きなファクターだから、お年寄りたちは村からなかなか離れたがらない。
加えてそこで土に触れ、土地の恵みに生かされてきたと感じている人々にとっては、土地そのものがアイデンティティの核になっているのだと思う。

住む土地にしっかりと根を張った暮らしというものはそう簡単に揺るがない。
食を育む土さえあれば、嵐が来ようが洪水に飲まれようが、一旦は荒らされた土地も少しずつもとの状態に戻してやり直すことができた。
大きな時間の中では“何とかなる”ような安心感に支えられて暮らしが営まれてきた。




今度ばかりは“何とかならない”事態なのだと言われてもふつうの人間にはピンと来ない。
その毒は目に見えないし臭いもしないし、“すぐには体に異常も起こりません”なんて曖昧なことを言う。

土が汚染されているので剥がして隔離するのだそうだ。
山は手のつけようもないのでそのままにして人があまり近づかないようにする。
いい土ができる山の落ち葉も使ってはいけないらしい。

人間も自然の一部のはずだが、その人間の行為が自然とかけ離れていき、その結果としてある地域が人為的に隔絶せざるをえない場所となる。
人間の働きかけによって、他でもないその人間の歴史が終わってしまう土地が生まれる。


想像を絶する事態。
しようがないのか。


でも、想像できるのは人間だけだ。

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2011年12月19日月曜日

自分なりの総括③

福島の米から相次いで基準値以上のセシウムが検出され、せっかくの1年の成果も出荷停止となっていると聞く。

農家は土地に根を下ろし、そこで作物を作ることは当たり前の行為だと思う。
だからこの春、はたしてこの地にいつものように種を蒔いてよいのかどうか逡巡したであろう地元の農家も、とりあえずはいつもどおりにやってみたのだろう。
結果いつもと何ら変わりなく見えた新米も、検査器の数値のかぎりでは出荷してはいけないということになった。
当たり前にやったことが数字ひとつでパーになった。

それでは収入もないので何とかしろというだけの話ではないと思う。
もしかするとその土地ではもう作物は作れないのかもしれない。
そのとき農家はいったいどうしたらいいのか。

よその土地へ移って新たに始めればいいじゃないかなどと単純に考えてはいけない。
そう簡単な話ではないだろう。
土地への愛着ということもあるかもしれない。

思うに農業というのは土地土地の気候風土にしたがった適地適作というものがあり、土地ごとの慣習もあり、たとえよそでの経験があったとしても、そうやすやすと新たな土地に溶け込んでやっていけるものでもないんじゃないか。
それもかなりの数の農家が散り散りになって、それぞれの新たな地域で再スタートを切るというのはかなり困難な話だと思う。

それではムラごとそっくり別の場所へ移しましょう、皆さんそこで今までどおりやっていただいて構いません、なんて話になるとすればまさに都会の土を知らない人間が考えそうなことで(都会人の自分が言ってもあまり説得力ないが)、ある土地の営みは個別固有のもので相互に交換の利くようなものではない。


チェルノブイリ周辺の村から移動させられた人たちは、逆に移った先でストレスを抱えたりして、汚染を承知で帰ってきてしてしまった例も多いと聞く。
明らかに人体に害があるとわかっていながら、かろうじて自分たちが食べるために作り、作るためにそこに住む。

それが何なのか知りたいと思う。

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2011年12月16日金曜日

自分なりの総括②

12月9日の朝日新聞紙上で、脚本家の倉本聰氏がTPP論議に対する見解を述べている。

土から離れた議論 農業を知らない 東京目線の思考

「農林漁業は統御できない自然を相手にするところから始まっている。工業は、すべてを統御できるという考え方に立っている。この違いはでかいですよ。統御できるもので勝負して、統御できないものは切り捨てる。そういう考え方が、TPPの最大の問題点だと思えるんです」

「自然を征服できなければ、その土地を捨てて、次の場所へ移ればいい。それが米国流の資本主義の思考じゃないかな。でも、日本の農業は明らかに違う。土着なんです。天候が悪くて不作の年は天運だと受け止め、歯をくいしばって細い作物で生きていく。それが農業の本来の姿でしょう」


アメリカの農業のやり方と日本のそれとでは、そもそも根っこの思想がまったく違っている。
氏はそんな日本の農業をひと言で“土着”と称している。

土地を離れられない、住む土地といわば運命共同体となって苦楽を共にする生き方。
それが実は何よりも揺るぎない、たしかな暮らしの土台なのだと思う。


いままではたしかにそうだった。
だが果たしてこれからもそうであり続けられるだろうか。

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2011年12月14日水曜日

自分なりの総括①

3月の震災とそれに続く甚大事故からすでに9か月。
とくに被災地から遠いこちら西日本では記憶の風化も早い気がしている。

地方に移ってからの15年間の記録から始まったこのブログ。
あらためてタイトルを解釈すると、そこには半中央自然回帰の思いがある。

私の理想は、自分の住む土地にしっかり根を下ろしたたしかな暮らし。
土と関わって食べるものを作り、食をつうじて土地の人たちとの関係を結ぶ。

このたびの出来事はそうした自分の思いを再確認させ、さらにいっそう強めることにもなった。

私がいま問いたいのは、汚染によってこれからその自分の土地で生きていくことができなくなるということの意味だ。
土地から望まずして引き剥がされる人間と、人の営みが途絶える土地と。

町住みの人間のごく観念的な小さなブログなりにこの数ヶ月で考えてきたことをまとめておくことにする。

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2011年11月18日金曜日

秋生農園訪問

大島にある秋生農園への訪問がようやく解禁となった。
思い描いてきたとおりの、海が近くとても静かな心休まる場所であった。

“秋”(→地名)の海が見える
庭には二羽(以上の)ニワトリも

そしてほんとうに生い茂る雑草の中に立派に野菜たちが育っていた。
思っていた以上にあらゆる季節の野菜が植えられている。
発芽して間もない玉ねぎ苗、間引きを待つ大根、カブ、よく育っている水菜、もう晩秋だというのにいまだ旺盛なミニトマト、ナス、ピーマン、オクラ、ズッキーニ、辛くて食べられないししとう、ナタ豆、ピーナッツ、…etc.,etc.。
クイズ。上の写真には何の野菜が植わっているでしょう?

農園の目下の悩みの種、イノシシの痕跡も。
ヌタ場(ヌレ場ではない。イノシシがのたくった痕である)

これには農園主の必死の対抗策の数々も。
農園の入り口にはヒトの髪の毛がぶら下げてあった(袋入り)。
唐辛子を塗ったイノシシよけ

ライ麦を植える計画も持っている。
パン屋さんと取引できるようになればいいですね。
自然農のライ麦、付加価値高いよ。
ライ麦畑で(イノシシ)つかまえて!


畑を見ると農園主の人となりがわかるという。

まさにここのあるじの大らかな心そのもののwildな楽園であった。

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2011年11月3日木曜日

後世への最悪遺物について

昨日、朝日新聞紙上で見つけた記事。

ことば
小澤征爾さん(指揮者)
今年の世界文化賞を受けた指揮者の小澤征爾が、受賞者会見で「僕の先生たちはよく、『知らないことはよくないことだ、罪だ』と言っていました」と切り出し、原発事故について語り始めた。
「僕は、原発は地球を汚さないし安いし、人間が考えた素晴らしいものだと言われ、そう信じていた。それは、知らなかったわけです。前にも事故があったけどピンとこなくて、また起こるとは思っていなかった。要するに、本当に知らなかった
その上で、今年この賞を日本人である自分が受ける意味について、「だから、僕にとって今年は非常に恥ずかしい年。その年に賞をもらうことは、運命だと思っています」と話した。
(下線筆者)


原発の真実を知らずにきたこと、度重なる事故の報道に接してもなお知ろうとせず、そして今再びこの度の決定的な事故についても忘れようとしているわれわれ日本人。

知らぬまま己の一生を通過できればよいと考えることの恥。
現世を無事乗り切れたと思っていることの恥。

少なくとも知らずにいられた、平気で生きてこられたということの後世に対する決定的な恥。

そして、知ってなお平気でいられる、恥を感じぬ精神、すぐにまた忘れられる感性。

これがタダじゃ済まないことを人間の魂はほんとうは知っている。

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2011年10月26日水曜日

タネを残そう!

自然農をめざす秋生農園さんの大きな方針のひとつが作物のタネを採ること。

自家採種の試みでも触れたように市販の種はほとんどが自分で種採りできないように作られていて、やってみればわかるが年々野菜の質が落ちていく。
つまり種苗メーカーが「毎年タネを買ってね!」というメッセージを発しているわけだ。
われわれの日常感覚は完全に工業化されてしまっていて、なんでもかんでも次々に買い換えていくのが当たり前。
園芸店やホームセンターに行くと季節ごと野菜の種のコーナーが入れ替わっていて、知らず知らずそれがふつうのことと思い込んで種を買ってしまう。

でも待てよ、むかし子どものころ夏に育てた朝顔やひまわり、ちゃんと種がついてたじゃん。
それを次の夏までとっておいて使ったかどうかは定かでないが、学校教育的には「採った種をまけばまた朝顔が芽を出します」のはず。
どうなんだろう、こんな草花まで年々劣化してしまうんだろうか。
親が意識してしつこく毎年タネ採りして育て続け、5~6年後の成果を子どもに見せ、中学に上がる頃に「世の中じつはこうなんだよ」と教えてやるのもいいかもしれない。

秋生農園さんの行動も、工業化された農を回復するためのささやかな反発なのかもしれない。
反発しようにもメーカー品の種から始めたのでは無駄な抵抗に終わるため、彼らはメーカーで開発した(…ってホント工業製品だよ)F1種ではなく、今では貴重ないわゆる在来種を入手している。
ネットで調べればけっこう各地で保存活動が盛んで、各地域の伝統野菜の種が手に入るのだ。
インゲン豆を守る人々の北海道産在来種の豆も手に入る。
http://www5c.biglobe.ne.jp/kiyomi65/beniya/index.htm


内村鑑三『後世への最大遺物』という本を図書館で借りてきた。
どうやら内容はイメージとはやや異なるようだがタイトルに惹かれた。
タネこそ、後世への最大遺物だろう。

そして“後世への最悪遺物”がアレですね。

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2011年10月20日木曜日

発酵食(はっこうしょく)に興味

かつてパン焼きなどをしていた当時、同時にぬか漬け作りにも励んでいた。
あの頃は食べごとに新鮮な発見があっていろいろやってたな。
ぬか床はその後も何度か母親が作っていたが、味がよくならないとか何とかあまり長続きしなかった。

腸内環境を整えるので乳酸菌、=ヨーグルトと刷り込まれているが、日本人には納豆や漬物から乳酸菌をとる方があっているようだ。
最近パンの情報を集める中で、小麦のグルテンが腸に悪影響を与えることがあると聞いて「やっぱり」と思い当たるフシがあり、パン好きなだけに困惑している。
ふたたびパン焼きでもしてみようかと思い始めていたが、自分の体のためには漬け物作りのほうがいいかもしれない。
手間もそれほどかからないし。

本を見ると麹(こうじ)を使っていろいろできそうだ。
甘酒床やら塩麹床など、おもしろそう。
たまたま図書館で借りてきた本だが、著者はこの発酵食でアトピー体質を克服して発酵食堂というのを目黒で開いているらしい。
発酵食堂

発酵食品はチーズや琵琶湖のなれずしなど、皆特有の強烈なニオイがあって好き嫌いもあるが、微生物の働きで味わいを醸し出し、人体にも好作用の健康食だ。
自分で作って積極的に食べる人体実験をやってみようかと。

酒も発酵だな、そういえば。

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2011年10月6日木曜日

鼓童、ゆかりの島でのコンサート

なんとあの鼓童がこのたび周防大島でコンサートやるというので久々に見に出かけた。
1981年の鼓童の結成に大島出身の民俗学者宮本常一氏が関わっていたとのことで、その没後30年追悼公演、鼓童にしては格安の料金で見ることができた。

以前東京で見た時は渋谷の街中、ハイソなホールで料金も1万円ほど、一種のブランド感覚があったのだが、今回はある意味彼らの地元佐渡に似た島の素朴な雰囲気の中での公演であった。
見に来る客も島のじいちゃん、ばあちゃんらが公民館での寄り合いムードで(言い過ぎか)三々五々集まり、会場内でも知り合い同士が声掛け合って。

司会のぎこちないMCと演奏前の関係者あいさつなど、いかにもの進行状況の後、始まったパフォーマンスはそうそう、あの鼓童そのもの、場所は違えど変わらぬクオリティに再度圧倒された。
太鼓と聞いて祭りのお囃子を想像して来たかも知れぬじじばばが度肝を抜かれたのがはっきりと伝わった。

しかしさすがに伝統音楽、素朴な島民にはむしろ都会のオーディエンス以上に血に訴えるものがあるのか、ナチュラルなバイブレーション(日本語で表現しろよ)で反応している。
しばらくクラシックのコンサートばかりだったので、聴衆の反応がこれほどまで違うものかとハッキリわかった。
まさに体を張っての演奏に体で応える聴衆。

いなかならではのなかなかいい体験をした夜だった。

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2011年9月29日木曜日

自然農一家のその後

大島の起業セミナーで知り合った自然農一家、マイペースで野菜作りを続けるようすを日々ブログで発信しています。
なにしろ雑草を極力とらず、水も天の恵みに任せるというのですから、この暑い夏を乗り切れるのか心配していましたが、ブログを見ている限りではわりとのんびりとやってるようでした。

彼らがいま一番懸念しているのがイノシシの被害。
大島には元来野生のイノシシはいなかったのが、数年前から海を渡ってやってきて少しづつ数を増やしているようです。
なんと四国で野犬などに追われたあげく海に飛び込み、そのまま一直線に大島まで泳いできたそうで、まさに猪突猛進。
一匹だけでは繁殖できないだろうから、そういうケースが何度もあってうまい具合にオスもメスもやってきたということなのだろうか。

これは生態系の異常としてじつは深刻な問題かもしれない。
つまり大島の山には彼らのニッチがないので、里で畑を荒らすよりほかに生き延びる術がないのでは。
農家は作物が彼らに食われるのを座視するわけにもいかないので、人とイノシシとの壮絶な生存競争なのだ。

一家はわな猟の資格を取ったり、各種イノシシ除けを設けたりとあれこれ奮闘中。
この夏やってきた金太郎君も、このたび立派な犬小屋を作ってもらって有望な番犬だ。

エライ役目をしょわされて気が重いよ、おれ。


私としてもなんとか力になりたいところだが、初っ端から大島特有の厄介な問題を抱えてしまった一家。
自然農を続けつつ、野生動物とどう折り合いをつけていくのか、むしろこちらが勉強させていただく感じだ。


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2011年9月14日水曜日

やっぱりパンが好き②

日本マクドナルド初代社長、藤田 田(でん)氏の生前の言。
「幼い頃に馴染んだ味がその人の一生の味覚を左右する(だからマックのハンバーガーを刷り込もう、ひひひ)」

かくして私たち世代もみごとに学校給食によってパン食を刷り込まれてしまった。
この背景にあるのが、アメリカの余剰小麦輸出戦略、キッチンカーによる洋食普及運動、かの有名な「米を食べるとバカになる」etc,etc…。

その上、内外価格差もあいまって小麦の国内自給を放棄してしまったので、パン食を通じて日本人は食料の海外依存体質になり下がってしまった。
(もちろん小麦だけではない、大豆も日本人の大切な食料だったはずが、いまや国産大豆は貴重品だ。)

ようするにパンを食べるということは(今さらこんなこと言ってももうほとんど意味ないんだが)不自然なことだというのは一応自覚しておいたほうがいい。
日本の気候風土にそぐわない食うんぬんより何より私がキモチ悪いのは、一般国民が知らぬ間に明らかな意図をもって食の塗り替え、刷り込みが行われ、その食が、日本人の命の糧が他国に握られている現実だ。

われわれ日本人はもはや老若男女、日々パンなしでは生きていけない(とくにお年寄りは結構パンが好きだ)。
もうパンが好きで好きで、ブログで日々語らずにいられない中毒患者もたくさんいる。

このパン好きな日本人がモチモチ食感を好み、日本独特のもちもちパンが売れ(外国人は違和感を持つらしい)、ひいては米粉パンが登場、これもけっこうな評判で“ゴパン”なるご飯でパンが焼けるパン焼き器が売れに売れた、という非常に面白い展開に私は今ひそかに期待している。

2011年9月4日日曜日

やっぱりパンが好き

日本人の主食は米。
もっとお米を食べて国内の農業を守っていかなければいけない。

頭でわかっていても、われわれの世代は強烈に小麦食を刷り込まれてしまっている。
学校給食はほとんどパンの記憶しかないし(コッペパンにマーガリン)、朝もなんとなくトーストで済ませていた。
給食のパンははっきり言ってちっともうまくなかったが、朝はパンの習慣だけは抜けず。
時間に余裕があるなら朝もご飯を食べればいいのだが、うーん…。

じつはやっぱりパンが好き、なのである。
とくに私の場合、ある時期から食事制限で無添加、卵なし、乳製品なしの、今どき手に入りにくいパンしか食べれなくなったので、かえってパンへの執着が激しくなってしまった。

自然食品店などで売っているそうしたパンはたいがいパサパサであまりうまくない。
泣きそうな思いでもうちょっとマシなのはないかと探し回っていると、そのうちまあまあ許せるパンもあったりする。
と同時に、“健康的なパン”を食べているうちにそれに慣れてきたし、そのシンプルな味わいがわかってきた。
いわゆるフランスパンは卵も牛乳も使ってないが、いいパン屋で焼いたものはたしかに美味い。
むしろフランスパンでその店の程度がわかると言われるくらいだ。

ほんとうに美味いパンは、その素材の良さ、小麦本来の味が活きている。
今ではそこらで売ってるフニャッとした何が入ってるやらわからんパンなどおよそ買う気がしない。
だが悲しいかな、家の近辺にそうした“ほんもの”を売るパン屋がほとんどない。
とくにこちらに移ってきた十数年前はひどかった。

かくして食えない故の少々異常なパンへのこだわり、“わたしのパン”探しの旅がはじまった。

2011年9月2日金曜日

畑の先生

一昨年、約4年ぶりに畑に入ったとき、地元のおばあちゃんが懇切丁寧に指導してくれました。
畑というのは、場所が違えば土も違うし、土地の気候、周囲の環境等々によって野菜の作り方が変わってくるので、当初からなるべく素直にその土地のやり方に順応しようと考えていました。
土地の野菜作りに一番詳しいのは、やはり地元でずっと畑をやっているお年寄りの方たちです。
いろんな人がいるでしょうが、幸い私が出会った人たちは皆けっして押しつけがましいところがなく、むしろこちらのやり方を尊重してくれました。

こんどの先生も、たぶんもうかなり教え慣れて(?)いるせいか、すぐにこちらの経験度を理解して、あまり余計な口出しもせず、それでいて要点はしっかり押さえているという理想的な指導者でした。
ウネ上げ、種まきの溝ほりなど、私がこれまで我流でやってきたことも、おばあちゃんはひょいひょいと軽い身のこなしで見せてくれます。
おばあちゃんはけっして「こうするんだ」などと言いませんが、私はそばで黙って見ながら心の中で「おおー、なるほど」と何度も感心していました。

彼女のいい所はこちらのやることにもちゃんと興味を示してくれることで、私が植えたズッキーニのことなども知りたがりました。
思えば彼女に限らず、畑をやっているおばあちゃんたちって皆わりと好奇心旺盛で、たいがいこちらの話をこころよく聞いてくれます。
私はどちらかと言えばあまり人づきあいが上手ではないのですが、畑で出会ういなかのおばあちゃんたちとは打ち解けることができます。
下田の最初の畑の師匠が一度、「taoさん、畑にいるときはとてもスッキリした顔してる」と言いました。
畑の空気がなにか特別な作用をするのかもしれません。

2011年8月29日月曜日

夢はせつない…

東京を離れてもう15年以上たつのに、いまだに東京の平和ビル(賃貸の旧宅)が舞台の夢を見る。
何年前からか、ようやくここ徳山の夢を見るようになった。

さすがに1年ちょっとしかいなかった下田が夢に出てくることは滅多にないが、どういうわけか今でもかの地に一室をキープしていて、たまに訪問するという内容の夢は見ることがある。
その下田の部屋はドアが壊れていて、夜寝ていてもいつも誰かが開けて入ってこようとするので、必死で応戦しなければならない。
東京の夢でも、夜ふと気になってドアのカギを閉めに行くと、閉める瞬間に必ず誰かが外から開けて侵入してくる。

そういえば一昨年、大島に部屋を借りたとき、まず物置の扉が壊れ、部屋のドアがしっかり閉まらなくなり、続いて自宅の部屋のドアが破れ、車のウインドウが閉まらなくなるということが立て続けに“現実に”起きた。

ふだん夢で見ていることがこうして次々に実際に起こるとさすがに怖かった。

東京で平和ビルに暮らしていた当時、それ以前の私たち兄妹の最初の家、泉マンションが夢に出てくることがあった。
これは平和ビルから泉マンションへ逆戻りしてしまう、一家が落ちぶれていく状況のとても切ない夢であった。
なんと妹もこれとほぼ同じ夢をよく見ていたらしい。
われわれきょうだいにとっては、あの泉マンションの記憶というのはよほど物悲しいものだったのだろう。

2011年8月25日木曜日

箱庭療法

前に畑でその人の人となりがわかるということを書いたが、この一種の自己表現をセラピーの手段としたのが箱庭療法というやつである。
本来はテーブル大の枠の中に砂や玩具を使って自由に表現させるもので、かつてその専門の本を買ってみたが、なるほど多種多様な表現があって、中には本当に精神の暗部がまざまざと表れていてグロテスクなものなど、当時心理学に多少色気があったので面白かった。
私もいつか専門の指導者のもとで試してみたいと思うが、これを無意識に日々やっているヒトがいる。

ウチの父である。
実際に家の庭でやっているので、空中から見下ろせば見事に箱庭療法になっているはずである。
何も知らないよその人が見れば、まあきれいなお庭、と褒めるかもしれないが、家族はその異様なまでの神経質な管理を知っている。
それは母に言わせれば、ちゃんと木や植物をわかった手入れではない、ということになる。
たしかにあそこまで、雑草一本なくなるまで土をむき出しにしてはいけない。

何より気持ち悪いのがプランターやら鉢類の並べ方である。
ニュアンスが難しいが、私たちにはとても気持ち悪く見える。
例えて言えば、うなぎの寝床とか、なにかの動物の群れがいっせいに同じ方向を向いている、といった感じ。
父のグロテスクな内面の表れなのか?
とにかくモノを並べるヒトである。
母は玄関に父の帽子が並べてあるのも大きらいである。

妹と私はこれを父の自己セラピーと呼んで、あれで本人は精神のバランスをとっていると解釈している。
そういえば東京にいた頃から、やたらと(あの狭い)家の模様替えをするヒトだった。
今だに自分の部屋の模様替えは月に一度はやっているようだ。

かく言う私自身も、立派に父の血を継いでいるせいで、自分でもイヤになるくらい神経質である。
私と接する人は、その言動で(こういった文章の書き方でも)大体わかるはずである。
ところが父の場合、他人からあまり神経質な人とは思われていない気がする。
むしろ豪快で大らかな性格と誤解されているフシがある。
ここがわが父の複雑な所で、じつは私もあるていど大きくなるまでわからなかった。

人はみな、自分の狭い“律”の中で生きている、生きざるをえないのだと、作家の色川武大氏が書いている。
父を見ていると何となくわかる気がする。

2011年8月22日月曜日

いつまでもあると思うな、親と…。

ついにわたくしにも死が迫ってまいりました。
自分だけは関係ない、心配無用…と、思い込んでおりました。
わが父が若い頃からあの状態でしたが、自分は母方の遺伝が強いものと…。

髪が、頭頂部のあたりが信じられないくらい薄くなっているのです。
気づいたのはいつもの美容院でのカットのあとでした。
「たしかに…」
プロの目でハッキリと認定されてしまいました。

この春以降の不調時に、妙にフケが出て、よくこすっていたので、一時的に薄くなったのかもしれません。
マユ毛もそれで薄いままだし。
でも生え際が全体的に上がってきているし、ついにキタかと。

思えばこの年までほとんど心配なかったことのほうが幸運だったのかもしれません。
あれだけさかんにテレビCMで煽っているのをまったく人ごとと思い、はるかに若くして悩む友人知人にほとんど理解を示さず、自分は完全に“健康体”だと思い上がっていた!

いまごろだから、こうしてあっけらかんと告白できるのかもしれません。
でも気づいて2、3日はじつに惨めったらしい気分でした。
花も咲かずに枯れていくのか…(リアル)。


これからしばらくハゲネタで書いていくぞう(涙)。

2011年8月19日金曜日

なんでも食べれて幸せか

年間自殺者28万7,000人(02年)
精神障害1億人以上(09年)→人口100人中13人
子どもの3分の2が何らかの精神障害(北京市)

いま中国が経済発展著しく、それにともなって食生活に激変が生じている。
経済発展の度合いに従って肉食の比率が増えるというのが定説で、まあ肉に限らないが、とにかく今まで食べてこなかったようなものを食べられるようになったわけだ。
これを一般には食生活の向上などというが、はたしてそうだろうか。
おそらく日本同様、成人病が増えているだろうし、社会的ストレス等とも相まって上記のような精神面への影響まで疑われる。

前回のタイトルの“食ジプシー”というのは、私のように“正しい”食を求めてさまよう人々のことを言っているのだが(“原発ジプシー”からもらいました)、経済力でなんでもありの混乱した世界で、ほんらいあったはずの日本人の体に相応しい食が何なのか“考えなければならない”状況だ。
おそらく玄米正食というのはそうした状況下での絶対解たらんとするので、価値の多様性を信じる我々にとって違和感を感じるのだと思う。

だがこと食にかんしては、ある地域に暮らす人々にとって、それほどの選択肢があるわけではない。
たとえばヨーロッパの人々とくらべて、我々日本人は肉食への適合性が低いだろうというのは何となくわかると思う。
例の身土不二だろう、でも明治の文明開化の頃から日本人も肉を食べてきてるじゃないか、もういいかげん慣れただろう、と言われるかもしれない。
でもひとつの民族の食性というのは保守的で、百年かそこらで変化・適応できるものではない。
日本の気候風土じたい、気候変動が激しいとはいえ、それほど変化したわけではないのだから、そこに暮らす日本人の体も変わる必要がない。

世の中の変わりよう(けして進歩と言いたくない)の激しさにヒトの体が着いていけていない。
IT、グローバリズム等々で情報ばかりが先行し、日本人だけでなく(比較的)肉を食べていい欧米人も健康体めざしてマクロビ始めたり、そのせいで逆に体調悪くして(笑)元に戻ったり、(アンジェリーナ・ジョリーがそうらしい。マドンナはまだ玄米食べてるのかな?)もう混乱の極みとしか言いようがない。

欲望の果てに、なんでも食べられるというのは、じつはとても不幸せなことかもしれない。
その行き過ぎたさまが、ひとりの人間の体では病気として表れ、世界的には食料の偏在、生態系の破壊にまで及ぶ。


こんどはあえてなにも食べない、断食というやつにチャレンジしてみようかと思っている。
食ジプシーの遍歴はつづく。

2011年8月17日水曜日

食ジプシー

下田での集まりの時、よく玄米食をやめてしまう人たちの話になった。
駆け出しの私は玄米ご飯の身に沁みるおいしさがわかりだしていたので、これをやめてしまうなんてもったいないし、ちょっと考えられませんと言った。
師曰く、玄米食の質素なおかずに物足りなくなって動物性のものに手を出すうち、玄米が重く感じられるようになってやめてしまうとのことだった。

結局私も例外足りえず、その後10年ほど続けた玄米食も、家族の食事との兼ね合いや体質改善への疑問などがあってやめるはめになってしまったのだった。
とはいえ玄米ご飯そのものは変わらず好きだし、季節の汁物と少しの野菜のおかずでゆっくりといただくあの食事スタイルは体も心も満たされていいものだ。

数年前から、日本でもマクロビオティックが少しずつ知られるようになってきた。
おもにダイエット目的のようだが、ちゃんと理解して取り組めば生き方全般を見直すきっかけになるかもしれない。
マクロビはじつは日本発祥なのだが、欧米のベジタリアンたちに受け入れられたらしい。
ベジタリアン(菜食主義者)のスタイル、動機はさまざまで、もちろん体のために始めた場合も多いだろうが、むしろ肉食に対するアンチテーゼの側面が大きいようだ。
そしてやめる理由も、肉の誘惑に負けてしまうことが多いらしい。
つまり非常に観念的に菜食を取り入れていて、そこにヨーロッパ人のコンプレックスを感じてしまう。

では自分はどうだったか。
動機はもちろん健康回復のためだったが、それまで自然に口にしていた肉類をやめる時は、たぶんわりとすんなりと、フィジカルな抵抗感はさほど感じなかった気がする。
じつは魚を食べていたのでマクロビアンでもベジタリアンでもないのだが、肉に関する意識が明らかに変わってきた。
そう、意識。
たとえば肉を食べる人に対するなんとはなしの嫌悪感。(その当時の話です)
ひいては肉食民族といった偏見や、世界にはびこる諸問題をとかく肉食に結びつけて考えてしまう等々。

ひとつの食の実践が、なんらかの思想傾向や主義主張と結びついてしまう。
宗教的な食のタブーに近いものも感じる。

玄米食体験というのは、私にとって健康面よりもむしろ精神面、ものの考え方に大きく影響したのはたしかだ。

2011年8月15日月曜日

夏の暑さに対応できなくなっている日本人?

先日、ひさしぶりに山口市内まで小一時間ほどのドライブ。
道中ほとんどずっと田んぼの青々とした中をじつに爽快に走り抜ける。
もう実り始めた稲穂から微かにおコメの香りが漂ってくる。
こちらに来て間もない頃にこの匂いを体験した都会人の感動は、あまり地元の人にはわかってもらえなかった。
今年は大変な年になってしまったが、こうして今年も稲穂が実る田んぼの景色はほんとうに心和むものであり、これだけは絶対失いたくない。



今年も情け容赦なく猛暑がやってきた。
すでに熱中症で何人もの死者が出ていると聞く。
床屋の主人とも話したのだが、昔はこんなに熱中症なんて聞かなかった。
ご丁寧にテレビのアナウンサーが、やれ寝る前に水を飲め、塩分も採れ、昼間の外出を控えろといろいろ言ってくれる。
けっこうお年寄りが室内で倒れるらしく、節電はいいからちゃんと冷房つけなさいなどとあれこれ言って混乱させている。
はたして日本人ってこんなに頼りない民族だったろうか?

それほどまでに近年の気候変動が激しいのも確かだろう。
でもそれ以上に激しいのが、日本の社会全体のあまりの変わりようである。

まず若い人たちは、おそらく環境の変化に対応する術というものをほとんど持ち合わせていない。
それは単に未熟という話ではなく、日常生活に芯がないからだと思う。
水分補給ひとつとっても、普段どういう水の飲み方をしているのか。
夏には夏の食べ方というものがあることをわかっているのか。
そもそも暑けりゃ人間動きが鈍くなるのは当たり前だが、それでも世の中全体が季節に関係なく過酷な要求を突きつけてくる。

問題なのは長く生きてきたはずの高齢者の意外な脆さである。
ひとつには冷房に対する抵抗感があって、これはあまりにも短期間で夏の室内環境を激変させた日本の社会のありようとも関連する。
とくに都会では密集した建物でかつての風通しのよさは失われ、人工的な環境に馴染まざるをえない状況を作り上げてしまっているが、たぶんいまのお年寄りは、そもそも冷房というものに馴染めない体なんじゃないか。
長く生きた人には相応の生きる知恵というものが誰しもあると思うのだが、それでも対応できないほど日本が激変したのだろう。


フィジカルだのメンタルだの、いちいち考えて行動しているのでは遅い。
日本人が本来持っていたはずの直観、判断力、いのちを守る知恵。

熱中症という現象をめぐっての私の雑感だが、こういう指摘を新聞紙面などであまり目にすることがない。

2011年8月7日日曜日

なにを食べたらいいのか

畑を始めた15年前、下田でいろんな人たちとめぐりあい、率直に自分の境遇を打ち明けて、いろいろな新しい考え方に出会いました。
玄米食との出会いもそのうちの大きなひとつです。

玄米正食といって、病気を克服するための厳密なやりかたもあるのですが、あまりそれにとらわれずできる範囲からやればいいとのことだったので、楽な気持ちで入っていけたのだと思います。
でも下田で玄米を食べる人たちと接しているうち、自然と肉を食べるのを控えるようになったり、陰性とか陽性とか、季節ごとに体が要求するものを採るようになりました。

人と会う時も自分の食事法は変えず、外食する際は自然食レストランなどを探して、軽いマイブームのようなノリでつき合わせたりしていました。
当初は自分もまわりもそういうことが新鮮に感じられて楽しんでいたのでしょうが、そのうち徐々にですが生活の全てがこの特別な食中心になってきて、人からは気を使われるし、自分自身も人との距離を感じるようになっていきました。
もちろん自分の健康のためですから、人と違ったっていいはずですが、何と言うか自分は正しい食事をしていて、他人は病気じゃないからいいのだろうけど本当は間違った食事なんだという傲慢な考えになっていったのだと思います。

現代の日本は恵まれていて、人それぞれ好きなものを自由に食べることができます。
こんなことは世界全体でもまれなことだし、まして他の生きものにはありえないことです。
それゆえに偏った食事で健康を損ねてはじめて、私のように食を見つめ直すということも起きてくるのでしょう。
食事を変え始めた頃の私は、世界観が変わってさあこれからだという希望に満ちていた反面、まるで自分だけ特権を得たような、極端に言えば他人をちょっと見くだすようなところがあったのも事実です。
いま振り返ればとんでもない思い違いです。

玄米食そのものはとてもいいことだと今でも信じています。
ただあまりそればかりにとらわれてはいけない。
健康が第一です。でも自分ひとりが健康ならいいってわけでもありません。
玄米食を絶対視すると、とくに中途半端な理解で突き進むとおかしなことになってしまいます。

いま現在、私は玄米食をしていません。
ある意味挫折したからですが、かと言って何でもありではない。
それに玄米食をきっかけに食を見つめ直すようになって、自分の健康はもちろん、日本人全体の食のあり方まで考えるようになりました。
そしてやはり下田で覚えた農作業が食にたいする信念を固めてくれたような気がします。

その土地で旬に採れたものをうまく工夫して食べる。

ただそれだけのことなんですが、畑を耕し、種を蒔いて水をやり、草を引いたり支えを当てたり、ちょっとだけ手助けをして、虫や動物に持っていかれた分を差し引いて、ようやく人の口に入る。
これだけの手間とかかる時間、そして季節のめぐり。

http://wara.jp/hyakushoyashikiwara/index-3.html

自分の考え方はそれほどずれてないんだと、やっぱり“ばっかり食”でいいんだと、嬉しくなりました。

肩肘張らずに自然体でやっていこう。

2011年8月5日金曜日

自然農の畑からのおすそわけ

これまで畑の話に関しては過去の回想ばかりでしたが、初めてリアルタイムの話題です。

6月の終り頃から体調不良をおして、ふたたびあの憧れの島に足繁く通うようになりました。
今回はやや本気で移住の可能性を探るため、島での起業を目指す人になりすましてセミナーなどに潜入していたところ、私がほんらい理想とする島で農業を志す方と知り合いになることができました。
それも現在私が住むこの市内から移住されて間もないというではないですか。

移住を決断されてわずか半年ほどで島内に畑付きの古民家を探し当て、仕事も見つけて家族で移り住み、早々に野菜作りを始め(なんと初めての試みとか)、そして知り合ったばかりのこの私に貴重な初収穫のおすそわけをくださいました。


一番上はツルムラサキ。小ナスのかわいいことよ。


 好物のズッキーニもほどよいサイズで、本日さっそくトマトとともに定番のラタトゥーイユで歯ごたえを堪能しました。
小ナスは一夜漬け、ツルムラサキもゴマ和えでおいしくいただきました。


ご一家はこの道のプロを目指していて、それで起業セミナーにも参加しているのです。
それもいきなり自然農での挑戦です。
短期間で猛勉強され、即実践というわけです。
移住から農業から、何ゆえそれほどまでに…という現在の中国のような驀進ぶりです。
(ご本人がこれを読んでおられたら気を悪くされるかもしれません。私こういう語り口なのです)

でもこのフットワークの軽さこそ、信じた道を突き進む時のしなやかさであり、いつまでも現状に甘んじてグズグズしている私が見習うべき行動力だと思います。



一歩を踏み出すこと
変化を楽しむこと
そして生きている間に何をしたいのかを考えること

先日、島の先輩起業家が私たちにくれた貴重なメッセージです。
(…ホントもらってばかりの私)

2011年8月3日水曜日

夏草の誘い

70年代ロックがやっぱりいい。

ジョニ・ミッチェルの“夏草の誘い”(1975年作、原題“The Hissing of Summer Lawns ”~直訳すると「夏の芝生がしゅうしゅういう音」。聞いたことないな、そんな音…)久々に聴いていて、あの夏の日のしんどい草取りのことを思い出してしまった。

最初期の下田の(下田、下田というが、実際は南伊豆市だった、借りていた畑は)畑では、もう何がなんだか訳もわからず、うわ、草生えてる、抜かなきゃ、状態だったので問題外として、山口の畑のときは周囲が住宅地だったこともあり、畝間よりもまず畑のまわりの草刈りに気を使っていた。

その日は覚悟を決めて、朝がた日の高くなる前または夕方に大汗かいて、一度では終わらずに四周を何日かかけて、ああ、思い出すだけで詮無い…。

せんない)~これこちらの方言だと思っていたが、変換候補にあったので辞書で調べると、
それをすることによって報いられる事が何もない様子だ。(用例「今さら悔んでも―(=むだな)事だ」)
とある。

うん、近いけど、こちらでは「…だからやりきれない」という感じのブルージーなニュアンスが加わる。

そう、けして報われないんだが、この草刈りというのは、ひとつの達成感が感じられる作業でもあり、じつは大嫌いというわけでもなかった。
毎年ちょうど体調が回復してくる夏の終わりごろのひと汗はなかなか爽快だった。
帰り道、カナカナの鳴き声など聞きながら…。


この草取りをいっさいせずに野菜を作ろうとしている人と最近知り合いになった。
耕すこともしないらしい。
種を蒔いて、収穫するまで何もしないのか…。
そんなウマイ話があるのだろうか。

農業にこれが絶対というセオリーなどない。
山の柿の木には何もせずとも毎年ちゃんと柿がなる。

自然の地力だけで極力人間が関与せずに恵みに与る方法とは…。

2011年6月27日月曜日

Rain Song

夜降る雨の音が好きだ。

東京にいた頃は「ああ、雨が降っているな」くらいにしか感じていなかったが、現在ささやかながら庭のある家に暮らしていると、雨の音もいくぶんか風情があるようだ。

夜はとくにまわりが静かになって、降り出した雨の音だけが聞こえている。

屋根瓦に跳ね返る音。
雨どいに溜まって溢れ出す音。
木の葉にばらばら当たる音…。

いずれの雨も終いは庭の土に下りて滲みこんでいくだろう。

この心地よい子守歌を聞きながら、いつまでたっても私は眠りに落ちることができない。

2011年6月20日月曜日

終わらない悪夢とブリューゲルの雪中の狩人

好きな映画の話。

惑星ソラリス”1972年ソ連映画、アンドレイ・タルコフスキー監督
(原作スタニスラフ・レム“ソラリスの陽のもとに”)

近未来、ソラリスなる星では、人間の精神構造に作用して、夜ごとその人の一番の心の傷が夢に現れる(ばかりか、“現実化”する)。
地球からソラリスに派遣される人間は、異空間で自分自身との葛藤に消耗していく。
そんな異様な状況への対応からか、ソラリスステーション内の図書室にはあらゆる地球の書物が揃えられていて、そのほか精神安定のためか名画のいくつかも飾られている。

そんな中の一枚がブリューゲルの“雪中の狩人”。


映画ではバッハのコラールが流れる中、丹念にこの絵をカメラがなぞり、いつしかそれは主人公の懐かしい故郷の風景と重なっている。

いつまでも終わらない悪夢の連続と、かつてあったふるさとのあたりまえの景色。

この映画を初めて観た時からふしぎと忘れがたい絵だったが、今まさに、なにか耐え難い魅力を持った絵に見えてくる。
四季のめぐりと繰り返される人間の営み。

この絵から人間の存在だけが抜け落ち(動物たちは残るだろう。放射能のことなど知りようもないから)、悲しい風景だけが残される。


ちなみにこの映画のリメイク版(S.ソダーバーグ監督、2002年アメリカ映画)はまったく別物なので注意。

2011年5月24日火曜日

神の仕業

今回の震災の賠償問題で、責任逃れのためにこんな発言をした人がいる。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110520-00000050-jij-pol

最高の人知を働かせ万全の津波対策を講じたが、図らずも「神による異常な自然現象」のためにこのたびの原発事故が生じたので、電力会社には責任がないというのである。

原子力損害賠償法では、たしかに「ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によって生じたものであるときは、この限りでない」(第3条)として免責条項を定めている。

これについて予見可能性の点からも今回は人災であり、かならずしもこの条項には該当しない旨の批判が出ている。


現実の賠償問題なので法的判断の問題なのだろうが、これは倫理上は人災であることをけっして免れない。
つまり原子力というものを、人間の知力によって制御可能なものとして解放した時点で、人間には絶対の安全責任というものが生じたはずである。


自然という神と対決して原子力利用を進める以上、人間だけがすべての責任を負うことになる。

それがいざ誰の責任かとなったときに、「あんな天災に遭ったらもう我々の手には負えません。だからすべて神様の仕業なのです」と平気で言い切ったのだ。
無神論者というのは都合の悪い時には神を利用することもあるのだ。

まあ、こういう人たちでなけりゃ、原発推進なんてできなかったのかもしれないが。

2011年5月18日水曜日

けっして浄化されない

原発事故が起きた福島県の隣県で、家庭菜園で自然農法を志す一市民が健気な努力をしている。
http://youtu.be/taYvTIcZuu8

コメントなどを見ても、やはり放射性物質は完全な除去が不可能であることがわかる。

これまではたとえ化学物質による汚染であっても、いずれ自然に還ることで何とか解決が図れた。
(とはいえ生物濃縮等で長期間残留し相当の被害をもたらすが)
とりあえず水に流すというやり方で何とか処理してきた。

ところが今回は水に流すと下水が汚染され、やがては海に流れて海洋汚染となる。
だから放射性物質を浴びたものはことごとく隔離され、慎重に保管されるより他に手がない。
気持ちの悪いものが溜まる一方で、そのうち置き場所にも困ることになる。


いくら有機だ、自然農だと言ったって、もうこれにはかなわない。
レベルが違う話だ。
この汚いモノが付いた土はいくら頑張っても、EMだろうがバクテリアだろうが、けっして浄化できない
土を取り去るより他ない。
汚染された表土だけ除去すればいいらしいが、高濃度の放射性物質はまだ浮遊しているので今後も油断できない。
土作りなど空しいことだ。


聞くところによれば東京あたりからの移住者が一番多いのが福島県らしい。
定年退職後、のんびりと田舎で土いじりというところだろうが、もうそれも危なくてできない。

こんなのんきなブログを書くことも馬鹿馬鹿しくてできないだろう。

2011年5月7日土曜日

食中毒事件に思うこと

ひさびさにまた病原性大腸菌による食中毒事件が起きた。

今回は焼肉屋で出された生肉料理のユッケ(→自分は食べたことがない)が原因らしい。

どうやら最近こうした生肉食がちょっとしたブームのようだ。
だが魚の刺身や馬刺しなどを除けば、従来の日本人には牛の肉を生で食べるという習慣はなかったはずだ。
いまは何でも金さえ払えば口に入る世の中だが、食習慣というのはじつはとても保守的だ

事件としては肉の流通過程や提供した焼肉店の衛生管理がもちろん問題視されようが、全体として不慣れな生肉食の“扱い”が軽すぎた感じがしている。

厚労省の生食用肉の衛生基準自体、O‐157の事件をきっかけにして1998年にやっと定まったものである。
生食用肉”の表示も強制ではない。
したがって流通段階での配慮が欠ける危険性が大きい。
その流れで無造作な扱いのまま、今回のような低価格を売りにした外食チェーンでは当然調理の手間を省く(今回はトリミングという、肉の表面を削ぎ落とす作業を省いていた。“もったいない”という理由かららしい~料亭吉兆伊勢の赤福、皆同じことを言う)ので、客は雑な扱いの危険な料理を食べさせられることになる。

われわれ一般消費者はまず値段で商品を吟味できるはずである。
だがデフレの世の中ですっかり勘を失ったせいで、何でもかんでも安けりゃいいと思い込んでしまっている。
とくに口に入るものの場合のリスクの高さには本当に無頓着だ。

有名店の看板を信頼したのかもしれない。
だから事故に遭った人たちは一方的な被害者だろう。

だが食は生命に直結するデリケートな営みだ。

たとえ一食の食事でも。

韓国料理のユッケは韓国の人たちにとっては気候風土に合致したなんらかの必然性のある食べ物かもしれないが、日本人にはまだまだ未開拓の食である。

社会全体が不慣れな、いわばバーチャルな食だ。


つくづく食をナメてはいけないと思う。

2011年5月5日木曜日

正しく絶望できているか

あの地震があってから、もうそろそろ2ヶ月になる。

その前日、3月10日の日付でコンニャクの話など書いている。

震災後しばらくはさすがにショックでのんきに畑の話など書く気にはなれなかったが、いまだにそれは変わらない。

このブログは、15年ほど前に始めた畑のことを自分なりにまとめることで、現在に至る自分の拠り所を確認しておきたいという思いがあったが、たんなる思い出話ではなく、過去のエピソードにも今の自分の有り様が反映している。
(今書けば自然とそうなるだろう)

今回の震災以降、今までのトーンで畑やらの話を書けなくなってしまったのは明らかだ。

もちろん放射能汚染のことだ。
作家の辺見庸氏が震災後に、“絶望する能力”ということを言っていた。
絶望的な現実が明らかなときに、それから目をそらさずに正視することができるか、それに耐えてなお前に進むことができるか、といった意味だと思う。

今後の私たちは、まず正しく絶望することから始めなければならない。
(…かなり辺見調)

2011年4月25日月曜日

アレルギーの子どもたちを助けて

阪神淡路大震災の時、被災したアトピーの人たちがとても苦労したという話を聞いた。

今回もアレルギーの子どもたちが避難所で食べられるものがなく困っているらしい。
各地のNPO等が支援に動いているようだが、なにしろ相当数の被災地があちこちに分散していてニーズに応え切れていない。

今回の震災で明らかになったことの一つが、主要幹線道路に頼った全国的な物流システムが案外脆弱だったということ。
これは地理上も致し方ないところがあるが、要するに中央があってあとはそれにつながる地方が点在しており、何かあった場合各地方が分断・孤立してしまい、自活できなくなってしまうということだと思う。

以前ちょっと暮らしていた伊豆の下田でも、よく「もし何かあったら完全に孤立する」と懸念する声を聞いた。
アレルギー食への対応は各地方自治体でさまざまなようだが、介護を必要とする高齢者や透析患者などと同様に明らかに把握しておくべきであり、各自治体の狭いエリアならば対応が可能なはずである。
普段から緊急用の備蓄としてシステムを作っておき、消費期限が迫れば割安に流通させるといったことも可能だろう。
なにしろ確実にニーズは存在する。

有事の際はまず第一に弱者が窮地に立たされ、そこから問題点が見えてくる。
だからまず弱者をカバーする対応をしながら地域生活の基本ラインを見極めていく。

食全体のシステムも地域が主体となること。

いつも言ってる地域自給だけど、復興再生のタイミングで発想転換できないだろうか、いい加減に。

2011年4月13日水曜日

土と生きる覚悟をした人

福島在住の住職、玄侑宗久氏は今回の震災および原発事故の最前線ともいえる御自身の地所に留まり続けながら、現地の生々しい声を送り続けている。

http://yaplog.jp/genyu-sokyu/

余震に怯えすっかり心が弱ってしまったかの地の人々、原発で戦い続ける現場作業員、そして放射能汚染の“被害者”に他ならない自ら命を絶った一農家。

自死の前日、男性はしきりに“むせる”ような仕草を繰り返していたという。
玄侑氏はそれを国や市場の無情な有り様に対する“吐き気”と表現している。

30年間土に語りかけてきた人が、ある日突然一方的に出荷停止を命令されてしまう。
土作りをして種を蒔いて水を遣ってやっと育った野菜を出すなと言われる。
この時期に出荷するためには前の季節から準備してようやくここに至る流れというものがある。
その流れが無になった。
この半年ほどだけの話ではない。
今年の収穫はこの30年の努力の結果なのだ。
たとえば30年生きてきた人の価値を認めないようなものだ。
それだけ土と一体になって生きてきたのかもしれない。
出荷停止を言われてから一日の間、人格の全否定に“むせる”ように嗚咽しながら耐えていた。
一日で死んでしまうくらい真剣にしごとと向きあってきた人。


勝手に想像してごめんなさい。

2011年3月29日火曜日

日本が落とし前をつける

結局、原子力という人間が扱いかねるモノに関しては、日本という極東の小国がいつも身をもって世界に示してきたということになるのではないか。

少なくとも原発に関しては、技術力に対する過信、というか無謀な有り様が、いまだ続く事故処理のドタバタで全世界に発信されている。
すなわち“想定外”という言葉に表れている、原子力制御に対する根本的な懐疑、そしていざそれが暴走した場合の無能と無責任。
東電や原子力安全保安院の訥弁は、彼ら自身根本的には自信がないことの表れではないのか。

放射能はもう撒かれてしまった。
しかたがないのでこれからよーく考えてどうカタをつけるか。
原発周辺の土はしばらく(?)使えないので作物は作れない。
地元の農家はどうなってしまうのか。
しかし空気と水は常に循環しているから、日本中がしばらく(?)は放射能のことが頭から離れない。

ゆっくりと恐怖を味わいながら(他人事ではないが)、そうかこういうモノを使ってきたわけか、と賢明な日本人が熟考し、今後の日本の生き方そのもので世界に問うていくべきではないか。

かつてのチェルノブイリの事故当時、ヨーロッパ中が汚染され、原発見直しの機運が高まったにもかかわらず、その後地球温暖化やら何やらで「やっぱり原発」となってしまっていることを鑑みると、特段日本に期待するわけにもいかない気もする。

ただ、東洋の根本思想は循環、永続性。
そこに日本の存在感がある。
土が汚染されて農の営みが途切れてしまった“痛み”を本能的に感じ取る感受性が日本人にはあると信じたい。
原子力という圧倒的な暴力は、半永久的に放射線を出し続けることで自然と人間との永続的な関係を断ち切る。
それを技術的制御で封じ込めることの限界に対する楽観というか不節操、核廃棄物という最終処理不能物に関しては完全に思考停止か。

フィンランドで大規模最終処分場計画が進行中などと聞くとあらためて救いはないと感じるが、これまでさんざん恩恵を被ってきた代償の一部なりと、なんらかの苦痛を味わうことで少なくとも自分たちが生きている間に引き受ける。
日本が犠牲になる、という言い方はいささか感傷的なヒロイズムに聞こえるが、とにかく世界中が日本の今後を注視している。

原発に関しては、核廃棄物という間違いなく解決不可能(10万年誰が管理するの?)な有害物のことをほとんどの人が口にしないが、未来に対する責任の回避は人間のあり方として根本的に間違っている。

今生きている誰もこの罪からは逃れられない。

2011年3月20日日曜日

『もの食う人びと』再読~禁断の森

しばらく前に読んで忘れていた本を、久々に引っ張り出して読んでみると案外発見があったりする。

辺見庸著『もの食う人びと』1994年刊より、“禁断の森

~1986年のソ連チェルノブイリ原発事故から約8年後、著者は復旧した原発内に入り、職員用食堂で職員らと食事を共にする。
原発内部で出会う人ごとに「だいじょうぶ」を連発され、逆に不信感を募らせる著者。
いっぽう、事故後の付近一帯は立ち入り禁止となっているにもかかわらず、強制的に立ち退かされた住民がちらほら戻り始めていて(その大部分は高齢者)、大胆に土地のキノコや野菜を食べ、リンゴでリキュールを作り、一見ふつうに暮らしている彼らとまた食事を共にする。


右腕が時々握手も辛いほどしびれると老婆は言った。
「年のせいか放射能のせいか、神様にしかわからないね」
人生観と科学がごっちゃに語られる。
このあたりでは皆そうだ。私にもその傾向がある。
諦めで疑いを乗りきる。
今日の日をそうしてつなぐ。
そのような生き方もある。


ここでしか生きられない人たちが、「その日の命をつなぐために、緩慢な危機を選ぶ」。


二年前にモスクワから学者が来て食品を調べてもらったら、この土地のものはなんでも食えると言った。
だから野菜も果物も魚も食べているが、現在ほとんどの住人の甲状腺が腫れたり熱をもったり、どうもおかしい。
疎開先の者も含めると、事故前千人以上いた村人の百人近くが死んでしまった。
行政当局からはここに住むなと言われているが、ほかに住むところもない。
この世から見捨てられている。
どうすればいいのか。


「三十キロ圏内に住むのは同盟として反対だ」という(ウクライナ・チェルノブイリ同盟~事故の遺族、被曝者団体からなる)議長は、しかし、原発の運転継続には賛成という。
ウクライナは全電力の三〇パーセントを原発に頼っている。
ロシアとの関係悪化で格安な石油輸入がままならない。
エネルギー危機のいま、やむをえない結論だというのだ。


国が、企業が、何をしようが、何を言おうが、土地の住民はそこに住み、そこで採れるものを食べて命をつなぐしかない。
チェルノブイリしかり、水俣しかり、そして今度は福島、宮城、茨城…。

蒔いた種は自分たちで引き受ける。

被害者であって加害者。
覚悟を決めるしかない。

2011年3月14日月曜日

闇夜の経験

これまでの人生で、ほんとうの闇の中というのを二度ほど経験したことがある。

最初は大学生の頃に軽井沢に遊びに行った時、別荘地の中で。
二度目は何年か前、宮崎の田舎で。

闇の中というのは視覚を完全に奪われ、そのぶん聴覚、嗅覚などが異様に敏感になる。
実感としては、なんとなくむわっとした空気の塊に包まれているような息苦しさがあった。

現代の都会育ちではめったに味わえないなかなかいい体験を、これからまさに東京近辺の皆さんが味わうことになるのでしょうか。

2011年3月10日木曜日

蒟蒻(こんにゃく)


たまによその畑で見かけるあれは何だろう。自然の家に来て初めて、あれこそコンニャクだと知りました。

コンニャクは栽培にも加工にも手間がかかります。
日陰の畑で三年近く、毎年コンニャク芋を土に埋めては掘り出し、少しずつ大きくしていきます。

そして適当な大きさに育ったイモを選んで、実際にコンニャク作りを経験しました。

現在、業務用の加工では機械を使って皮むき、精粉(イモを粉末状にすること)しますが、自然の家では当然、昔の手仕事を体験させます。
したがってまずしっかりゴム手袋をはめて(山芋と同じくかぶれる恐れがあるので)、タワシを使ってイモの皮を擦り取ります。
イモはゴツゴツして凹凸があるので皮を完全に取り去るのは無理です。
このため出来上がったコンニャクは皮が混じって黒くなるのだということも知りました。
逆に現在の機械使用では完全に皮が除けてしまうので、わざわざ海藻を混ぜて黒味を出しているらしいです。
(原材料に海藻粉末とある理由がわかった)

次に大きなすり鉢の中で、少しずつ水を加えながら擦ってドロドロの状態にします。
結構しんどい作業です。
これを型に入れて少し置いて固まるのを待ってから、大釜で茹で上げました。
この段階あたりでたしか石灰を加えた気がしますが定かではありません。

業務用では、皮むきの後加水せずに粉末状にしてしまい、この状態で流通させ、成型時に加水して加工するそうです。


何故いまコンニャク作りの話?

例のTPP(環太平洋経済連携協定)参加をめぐって、農産物の輸入関税が何かと話題になっている中で、なぜかコンニャクが1706%という突出した関税率で守られている。
(なぜか10年前の数字が出されているが、実際は現時点で313%
コメ778%をはじめとした高関税品目のひとつだが、それだけ競争条件が悪いということだろう。

たしかに関税撤廃されればとんでもなく安いコンニャク(…って、いくらなんだ。10円、20円の世界か?)がいくらでも入ってくるのだろうが、それじゃあんたらこんにゃく食べてるの?と言いたくなる。

あんたらとは誰か?
もちろん売れるから作って輸出する、こんにゃくなんか食べない国々。

それからこんにゃくなど忘れかけてる日本の人々。

まずこんにゃくを食べもしないのに売りつけないでほしい。
日本人は自分らで何とかするからほっといてくれ。

それから日本人、ちゃんとこんにゃく食べてるのか?
あれだけの高関税で守られるほどのもの?

こんにゃく作りを経験した身としては、多少のいとおしさは残っている。
それから栽培技術が失われてしまうのも惜しい気がしている。

たかが蒟蒻、されど蒟蒻…。

2011年3月2日水曜日

Table for twoという試み

このまえ、給食費を払わない日本の親の非常識を書きましたが、そもそも日本の学校給食って、戦後の食糧難の時期に欠食児童(死語か?)をなくすために始まったもののようです。
ウチの親の話でも、お昼の時間に弁当がないので外に出て行ってしまう子どもがいたりしたそうです。

日本で学校給食が始まったときは、アメリカの援助を受けた脱脂粉乳やパンなど、もらっておいて失礼かもしれませんが、必ずしも従来の日本人にあった食事内容ではなかったと思われます。
その後少しずつ変化していった経緯は、世代ごとに違う給食体験として皆さんの記憶に刻まれていることでしょう。

そしてすっかり飽食状態となったいまの日本では、給食の本来の意味も失われて、親の感覚としては、一食分作らなくてすむお手軽なサービスといったところではないでしょうか。
その費用を払うかどうかという意識の底には、まあ食事なんかどうにかなるといった、食べること自体の軽視があるように思えてなりません。

そんな日本で今、アフリカなどの開発途上国の欠食児童をなくそうというひとつの試みが始まっています。
これまでもunicefなどの団体によるいくつかの救済事業が行われてきたと思いますが、今回のユニークなところは、日本で1回の食事を摂るごとに20円(=アフリカの子どもの一食分の給食費に相当)が寄付されるというシステムです。

http://www.tablefor2.org/

国内および海外の協賛店ではメニューや商品にロゴが付いていて、ちょうどフェアトレード商品と似た感じで気軽に参加できます。
また各家庭でも、ひと月8000円(=20人分のひと月の給食費)食費を減らすことで寄付にまわすことができます。

これは同時にそれだけ食べる量を減らすことでこちらの過食も改善できるといった一石二鳥のアイデアのようです。

日本で食事をする時に、テーブルの向こうにアフリカの子どもたちの食べる姿を想像するというサイトの絵はなかなかいいと思います。

それと日本の給食と違って、ちゃんと現地の食習慣に沿ったメニューを考えて提供しているようです。
材料も現地調達を心がけ、地元の自立を視野に入れているみたいですね。

これまでの援助って、ただお金をぽんと出して終わりで、ちゃんと目的のために使われないことが多かったと聞きます。
現地でのきめ細かなフォローが望まれるところです。

いろんな意味で援助を通してわれわれが反省を促されるシステムなのかもしれません。

2011年2月26日土曜日

臓器提供は若者優先?

先日聞いたCNNニュースでは、最近アメリカで脳死からの臓器提供を従来の登録順ではなく、年齢の若い順にすべきだという意見が出てきているという。

提唱者いわく、「車だって20年経った中古車に最新のパーツをつけたって意味がないでしょう」だって。
さすが自動車の国。

昨年の日本の改正臓器移植法施行時の2ちゃんねるの書き込みを見るとblackなコメントが飛び交っていたが、そうした悪ふざけがことごとく正論に感じられてしょうがない。

現実のほうがはるかにグロテスクなのだ

先だって日本の心臓移植の先駆者が他界した。
手術は1968年に行われたが、同年、意図してかどうかは不明だが、まんが家の楳図かずおが「奪われた心臓」を描いている。

事故により回復不能と診断された少女から生きた心臓が取り出されることになる。
少女には実はまだ意識があり、必死に訴えようとするのだが体が動かせない。
やめてーという恐怖の叫びの中、心臓が取り出される…。

なんとこれとまったく同じシチュエーションが実在したらしい。
それもアメリカで。

とある青年が事故で脳死と判定され、彼がドナーとなる意思表示をしていたことがわかって、あとは摘出手術を待つばかりだった。
ところが青年には医療関係者の親類がいて、慎重に検査したところ、痛みに反応したので手術は中止となり、その後当人は奇跡的に生還を果たした。

テレビで見たが、彼はその後社会復帰し、結婚もして今では普通の生活をしている。
その彼が語っていた手術直前の恐怖の体験はまさにあの「奪われた心臓」そのものだった。

ありえる話なのだった

楳図ワールドが現実化してる、いまの世の中。

2011年2月22日火曜日

給食費を払わない?

前々から全国的に問題になってはいましたが、今ちょうどニュースで県内の話を耳にしたので書かねばなるまい。

山口県では2009年度、小中学校で全体の0.2%強、額にして1年間で1000万円近くが未納とのこと。
市によっては未納分を引いて全体で等分して食材を購入するため、それだけ単価を安くせざるをえない、すなわち未納者を含む全員の食事の質が低下するということです。

この事実をちゃんと未納の親に説明すれば、ひとりのタダ食いだけでは済まされないことがわかるはずだと思うのですが。

もちろん経済的に払えないという家もあるので救済措置があります。
でもたぶんニュースになるということは、払えるのに払っていない家庭が大部分だからなのではないでしょうか。

実際、いつだかテレビで、教師がそういう家に催促に出向くと、高級外車などがある立派な家だったというのがありました。
親は「今月は携帯電話の支払いがかさんでちょっと払えない」などとほざいておりました。
支出の優先順位はどうなっているんでしょうか。
子どもにはどう言っているのでしょうか。

いつか近々、いまの日本の家庭の食がどうなっているかということを書こうと思っていたのだが、食がどうこうより、まず生き方そのものがどうなってるんだという話。

もんすたー親たちは、おそらくものすごくひねこじれた理屈をこねて教師たちを困らせるのだろう。

2011年2月16日水曜日

東京を離れて失ったもの

田舎に来て、畑などに接する機会ができた一方、東京育ちを引きずった趣味の方面では事欠くことが多かったのも事実だ。

まずレコード・CDに関しては、当初からあきらめていたのでほどなくHMVオンラインショップでの購入がメインとなった。
地元には老舗のレコード店もあったが、2001年に閉店(クラシックのコーナーも充実していて地方の店っぽかったのに残念…)。
そしてなんと去年には渋谷のHMVまでが閉店。
時代だったのか…。

次にだが、移った当初から地方ならでは、チェーンの大型書店が幅を利かせていた。
じきアマゾンを使ううち、書店で注文するより断然早いのでこちらが購入のメインに(横柄な地元老舗書店の対応も原因だ)。
この10年ほどで全国的にも書店の数が激減していったが、山口県は全国でも4位の減少率だそうだ。

レコード屋も本屋も、店に足を運んでこその出会い(商品はもちろん、時には店員も)や、そもそも店に行く喜びが大きかったのだが、店自体がなくなっちゃうんじゃ、しゃーないやな。
もう地方には大型店しかないが、大型店は概してつまらん。
とくにこういう業種はそう。
都会はまだましで、個性のある小店舗が生き残れる余地がある(多種多様な人種がいるので)。

世の中全体が激変していったこの15年ほどを地方で暮らして、よりいっそう画一化を感じた。
たまに東京に行くと実感する。
古本屋もこっちにはもうブックオフしかないし…。


近ごろは金もないので、本もめったに買わん。
図書館を有効活用しておる。
リクエスト(月一度)にも応えてくれるし、家からオンラインで蔵書検索できるようになったし。
本屋よりずっと品揃えもよい。
司書の対応もよろしい。

地方にはライブハウスもあまりないし、文化会館にはきみまろとかしか来ないので(とほほ…)、いつの間にかクラシックファンになったのが収穫かもしれない。
地方にはクラシックなら来るのだ。

やや遠いが、地方ならではの小ぎれいな小ホールなどもあって、そこでソプラノの森麻季とかギターの大萩康司を見られたのは幸運だった。
(ここにはいきなり海外の大物が来たりする)
NHK公開録音とか(いかにも地方!)、いちおう第九も見に行った。

東京に住み続けてたらここまでクラシック聴くようになったかどうか。
とにかく来るものなら手当たり次第という感じ。
(地方公演は気の毒なくらい安いのがある。2000円とか)

ためしにクラシックの雑誌など見ると、東京はもうヨリドリミドリではないですか。
ただ高すぎる。
東京のクラシックは敷居が高い。

2011年2月13日日曜日

照葉樹林文化

数年前、宮崎県の綾町というところを何度か訪れました。
ここは全国でも珍しく昔ながらの照葉樹林の森が残されている場所なのです。

照葉樹林とは簡単に言えば、シイカシツバキなど、葉の表面に光沢があって一年中落葉しない常緑広葉樹の森林のことです。

近年の杉・ヒノキの植林によってもうほとんど見られなくなってしまいましたが、この綾の森では植林事業にあえて異を唱えることで、この貴重な原始の森(といっても人の手が入ってはいますが)が守られています。


はじめてこの森を見た時はブロッコリーだ!と思いました(誰もが一様に感じるらしいです)。
色とりどりでモコモコした見慣れぬ森は、かつて西日本一帯に広がっていたそうです(屋久島の“もののけの森”もそう)。

そしてこの森はさらに中国の雲南地方を中心とした華南一帯、台湾、ブータンにまで広がって、文化的同質性を持ついわゆる“照葉樹林文化圏”を形成しています。
それは焼畑農業養蚕発酵食品といった自然由来のものから入れ墨などの各種民俗的慣習まで、ふしぎと日本古来の文化と共通した特徴を持っているものです(印象的なのはモチを好む傾向。“もちもち食感”はこの辺でも売れるかも)。

森林はその土地の気候風土の象徴であって、そこに生きる人間はその自然の有り様に規定されて生きざるを得ないので文化的共通性を持つのが当然なのです。

これからの日本がどういう方向へ進むべきか、依然アメリカをはじめ西洋先進国に歩調を合わせていくのか、あるいは地域的一体性を持つアジアのほうを向いていくのかといったことを考えるとき、この照葉樹林文化というのはひとつのヒントになる気がしています。

2011年2月8日火曜日

Good bye, Gary Moore

近年、自分も年をとったせいでしょうが、思い入れのある人物の訃報に接することが多くなりました。
2月6日、スペインにて死因は不明ですが、あのゲイリー・ムーア氏が亡くなったそうです。
享年58歳

ギターに夢中だった頃のアイドルの一人で、もちろん来日コンサートにも行きました。

あの早弾きはまったく真似できませんでしたが…。

彼のギターは早弾きだけじゃなく、泣きのフレーズも印象的でした。
そんな彼の代表曲です。



今頃、ふたりで天国でセッション中でしょうか…。

ご冥福をお祈りいたします。

2011年2月6日日曜日

あこがれの自給自足

畑で野菜作りを続けるうち、野菜くらいはウチで自給できるのではないかなどと言い出すようになります。
そしてとくに収穫期の食卓などを見回して、今晩の“我が家の自給率”論議に花が咲きます。
もちろんそれは基本的な食品を自由に買える現実内での他愛もない空想に過ぎません。

現在、日本国内には約500万haの農地面積があるそうです(休耕地も含めた耕作可能面積)。
農水省によれば、その国内の農地だけで現在の日本の人口が必要とするカロリー摂取量をすべてまかなえ、その場合の食事の内容は、毎日ご飯2杯サツマイモ3本ジャガイモ3個焼き魚1切れぬか漬けリンゴ4分の1個は必ず食卓に上ります。
味噌汁うどんは2日に一度、納豆は3日に2パック、牛乳は6日に1杯、は7日に1個、は9日に一度100gだけ、は1日に小さじ0.6杯分しか使えません。
(以上、必要最低限のカロリー量を最優先した数字です。野菜なんかはどうなるんでしょうか)

現在、内外価格差の関係で小麦大豆の自給が落ちていますが、それを再開させたとしてもいまの人口ではこの程度しかまわってこないのです。

でもこのメニュー、じつはとても健康的ではないでしょうか。
ご飯も精白米ではなく玄米にすれば栄養度は高まるし、その他の副食の割合なども玄米食の内容に近いのです。
野菜も各家庭で季節ごとに採れるものだけを食べることになりますから理想的です。

アホくさいユートピア幻想と一蹴されるかもしれませんが、農産物完全自由化になって食料はすべて海外に、となるよりずっとマシな話です。

言いたいのは、この数字がほんらいの日本の基本ラインだということです。
現在の日本の食のあまりの不自然で不条理な有り様がよくわかると思いませんか?

2011年2月2日水曜日

インゲン豆を守る人々

先日テレビで、北海道の開拓農民が在来種の豆を今でも大切に守っているという話を見ました。
その豆というのが金時豆うずら豆などで、じつは皆インゲン豆の仲間なんですね。
以前ウチの畑で作ったインゲン豆のことを書きましたが、あれはサヤごと食べる“さやいんげん”でした。

金時豆(アメリカではキドニービーンズに近いのかな)は、かつてよく煮て食べたりしてすっかりなじみのつもりでいましたが、畑では他のインゲン豆と変わらない風情で意外でした。
もっと丈が高くて面倒なイメージでしたが、あれなら畑で作ってみればよかった。乾燥豆にして保存も利くし。

在来種の豆類は大量生産に向かず、わりと小規模の畑地で細々と作り続けられているようですが、北海道で90%近くを作っているそうです。
たしか粟・稗・黍なんかの雑穀類も、岩手あたりでやはり細々と作られていると聞いたことがあります。
こういった在来の貴重な作物や種をどうやって守り継いでいくかということで、そもそも種は保存にも限度があるため、一定量を作り続けなければ絶えてしまいます。
今では各地の施設でそうした貴重種の栽培・保存をしていて、一般の愛好家の支援(各家庭菜園で作り継いでいる)などもあるようです。

いま各地の伝統野菜も見直されてきていますが、ではなぜそういったものが市場から消えていたのでしょうか?

豆類は畑に窒素分を集めるので、他の作物との輪作に欠かせないものだったし、雑穀も米の不作時の救荒作物として一般的だったはずです。
本来土地に合った多様な作物を並行して作るというのが日本の農業の自然なあり方だったはずなのに(お百姓さんですね)、いつしか単一の作物を毎年同じ場所に作り続ける主産地生産が定着して、経済効率に合わない昔ながらの作物は日本中から駆逐されてしまいました。
これだと当然畑が年々荒れていくため、土壌改良のため多肥料投入、農薬散布ということにもつながります。

在来種の豆は日本全国どこでも作れそうなのに、なんだか北海道1ヶ所に追いやられているように見えました。
テレビに出た農家の老夫婦は、かつて米が作れず豆で飢えをしのいできた思い入れもあって、あくまで自家用に大切に作り続けているとのことでした。

住む土地に根を張ったうらやましい生き方です。

2011年1月28日金曜日

茶がゆの作り方

山口県の郷土料理の茶粥(サツマイモ入り)の作り方を紹介します。

(材料)
1カップ(200㏄)
7カップ
豆茶(25g)
サツマイモ1ヶ

①豆茶をあらかじめ軽く煎る
米を研がずに、水、袋に入れた豆茶といっしょに強火にかける
③煮立ってきたら大きめに切ったイモを入れる
④何度も吹き上がってくるので、煮こぼれないようにかき混ぜる
⑤かために仕上げるために30分ほどで火を止め、茶袋を取り出す

水の量が少なめなのでさらっとした感じに仕上がります。
出来上がったら米がのびないうちに食べます。

豆茶は山口では手に入れやすいですが、あまり一般的ではないかもしれません。
そもそも食糧難の時代の“カテ飯”(米不足を補うための工夫。おしんの大根飯すいとんなども)で、サツマイモも貴重な材料でした。

クセがなくあっさりしていて食べやすいお粥です。

2011年1月25日火曜日

芋掘りは楽し(後編)

さて、サツマイモはいものつるを植えつけます。
農家などでは収穫後、いもづるを枯らさないように保存しておくらしいのですが、家庭菜園ではふつう購入苗を使います。
(ちなみにサトイモは親イモを植えつけ、そのまわりにできる小イモを収穫します。この親イモのほうがまた意外に美味しいのですが)

つるの植えつけ方でできるイモも違ってきます。
土に深くさすと大きめのイモが少しで、浅くさせば小ぶりがたくさんできます。

植えつけたら根付くまでしっかり水やりして枯れないようにします。

あとはほったらかしですが、いちおう周りの草を取ったりして、気づけばいもつるがウネいっぱいに繁茂しています。
となりのウネまで広がるので、つる返しといって鎌で適当に刈り払います。
このいもづるも皮むきが面倒ですが、煮て食べればイモの香りがしてなかなか美味です。
(ちなみにサトイモの茎もずいきといって食べられます。大根も大根葉がおいしいし…)

そしてついに芋掘りですが慌ててはいけません。
イモはなるべく長く畑に置いたほうが味もいいのです
ただ寒さには弱いので霜が下りるぎりぎりの11月半ば頃まででしょう。

じつは私はこの芋掘りがヘタです。
鍬を入れるとたいがいイモを傷つけてしまうのです。
だから最近はスコップを使ってていねいに掘り取るようにしています。
芋掘りの時はいつも誰か子どもに掘らせてやりたくなります。
一度高校時代の友人が山口まで遊びに来て、いっしょに芋掘りをしましたが楽しかったですね。

前に書いたように、サツマイモは保存方法を誤ると“風邪”を引きます
発泡スチロールの箱などに入れ、すくも(米の籾殻)や新聞紙などでくるんでおくといいでしょう。


2011年1月23日日曜日

芋掘りは楽し(前編)

畑を始めた当初はイモを植えるのはつまらないと思っていましたが、イモ掘りの楽しさから毎年の定番となりました。
もちろんサツマイモのことです。

サツマイモはやせた土地でもよく育ち、この先食料危機の不安もあるため、自給体制を整えておこうという意気込みで我が家では取り組みました(なんちゃって)。

5月の終わり頃にウネを深く深く耕します
イモの肌が荒れるので、なるべく石ころなども取り除いたほうがいいでしょう。
例年この時季は体調が思わしくなく、この作業がつらかったのを思い出します。
そして周りから土を集めてなるべく高くウネを上げます

いまふと思いましたが、これまで各種野菜の栽培のことを書いてきて、肥料に関してほとんど触れていません。
まったく手落ちです。
ですが、我が家の畑では以前書いた生ゴミ堆肥の他はほとんど肥料を入れてなかったことも事実です。
せいぜい油かすか、有機配合と書いてある(あまり信用できませんが)のを買ってきて使ったくらいです。
なにしろ肥料類は高いんです。
でも毎年作物を作っていれば地力は落ちるはずで、はたして生ゴミを埋めるだけでいいのだろうかとたまに考えることもありました。
ただ生ゴミ堆肥の微生物の働きには期するものがありました。
畑の土にはわりとミミズも多く、掘り返しているといつも鳥がやってきて人間が帰るのを待っていました。

要するにたいていウネを作るときは元肥というやつをいれるのですが、とくにサツマイモの場合はテキトー。
雑草を刈って畑の隅にほかしていたものを入れたりしたかもしれません。

肥料の話が入ったので長くなりそうです。
いったん切って後半は次回。

2011年1月19日水曜日

季節の移ろい

東京を離れて地方へ移ってから、季節ごとの草木の移り変わりが気になるようになりました。

もちろん東京の街も木々は豊富なのですが、年のせいもあってか、そういうことに心が向くようになったようです。

下田では、もう1月から水仙が香り始めます。
そして菜の花コブシ木蓮レンギョウ
街の桜から少し遅れて、山のあちらこちらに山桜が色づいています。
桜が散り終わるといつの間にかハナミズキが咲き、新緑の頃からはツツジがしばらく続きます。
我が家の庭のアジサイは咲いたり咲かなかったり気まぐれですが、土の酸性度によって色づきが変わるそうです。


タチアオイが伸びているのを見ると夏が近いのを感じます。
庭のジャスミンは雨の後、そしてなぜか夜にいっせいに匂い立ちます。
夏の庭にはほかにもノウゼンカズラのオレンジ、芙蓉(ふよう)のピンクと色とりどりです。


木槿(むくげ)の木、とくに八重咲きの花が好きです。
葵(あおい)の花(むくげもアオイの仲間です)になぜか魅かれます。


彼岸の頃には田んぼのまわりに彼岸花の赤が点々と見えています。
イチョウの並木が色づき、拾いきれない銀杏の実は通学の高校生に嫌われます。
やはり匂いで気づかされるのがキンモクセイ
イチョウの黄色は紅葉の山の中でひときわ目につきます。

冬の庭、山茶花(さざんか)の花は散るのに、椿はなぜか斬首のごとくポトリと花を落とします。
ツワブキの黄色の花も寒い庭の彩りです。

なんだかダラダラと、庭を見ていれば当たり前の景色を書き連ねてしまいました。
でも田舎に来て、木や花の名前をずいぶん覚えたものです。

2011年1月15日土曜日

ズッキーニが好きで…

たいがいの野菜は別に好きも嫌いもなく、収穫すれば皆それなりに嬉しいものですが、ズッキーニという野菜に限ってはなぜかとても期待感を持ってしまいます。
夏作の果菜類は概してそういう遊び感覚のようなところがあります。

カボチャの仲間です。
カボチャは花が咲くと人の手で受粉させなければいけないと聞いていて、たしかに以前カボチャもズッキーニも一度は作ってみたものの、手がかけられずほったらかし状態でロクに実がなりませんでした。
ところが去年は山あいの畑という条件の違いのせいか、みごとに豊作。たぶん勝手に虫がやってくれたのでしょう。

トマトなどと違って、種からでもわりとラクにできるらしいのですが、今回は横着して苗を買ってきました。
やはり保温の覆いをして根付いた後は、まめに水遣りしてやると育つ育つ、5メートルのウネに3株だけ植えたのですが、巨大な株になりました。
ただ株元が弱く、不注意で1本折って枯らしてしまったのは残念でしたが、2株で十分食べきれないほどの収穫でした。

ズッキーニという野菜は味自体は淡白、ただあの独特の食感、歯触りが炒め物などで存在感を発揮します。
輪切りにして炒めて使うワンパターンですが、他に調理法があれば教えていただきたい。
カボチャは冷凍すると水っぽくなりますが、ズッキーニはどうなのでしょうか。
食感が損なわれてしまう気がするし。

2011年1月9日日曜日

夏野菜の主役?

家庭菜園で誰もが作りたがるのがトマトだそうです。
そして一番やっかいなのがこのトマトなんです。
畑を始めた当初の2年だけやったきり、やめてしまっていたトマトに去年久しぶりにトライしました。

春になると、園芸店やホームセンターには多種多様なトマトの苗が並びます。
最近ではとくにミニトマトの種類が豊富で、フルーツトマトやらイタリアンタイプなど目移りしてしまいます。
ミニのほうが比較的作りやすい気もします。
ナス科のトマトはナスに接ぎ木した接木苗というのがあって、割高ですがこちらを選んだほうが病気にも強いようです。

トマトの畝は広めに取って2条植えにします。
繁茂するので株間も広くします。


買ってきた苗はポリポットの土ごと植えつけたらたっぷり水遣りをして、根付くまで周りをポリの肥料袋などで覆って保温します。

早いうちに長めのしっかりした支柱を立て、麻ひもで順次固定していきます。
2条植えなので差し向かいの2本の支柱を斜めに交差させて結束し、5メートルほどの畝ならこの交差が4ヶ所ほどできるので(つまり全部で8株ということになりますね)、その上から畝に平行に交差の又の部分に補強用の支柱を通し、しっかり固定させます。
(言葉で説明するの大変…)

伸びるにしたがって、主枝からわき芽がどんどん出て枝分かれし繁茂するので、早いうちにわき芽を手で摘み取ることが肝心です。
主枝だけ伸ばした1本立てのほうが出来る果実の質もいいようです。

こうして色々気を使い苦労しても、大抵何株かはウイルス性の病気にやられてしまうのです。
秋に収穫を終えて片付ける時も、ウイルスが畑に残るといけないので、枯れ枝を焼却などしてしまったほうが無難でしょう。
ジャガイモも同様になるべくイモの取り残しがないようにします。

トマトはジャガイモやナスなどとは違って、根付いた後は極力水遣りを少なくしたほうがよく育ちます。
たぶん逆境に置かれたトマトの根が水を求めてしっかり伸びるからでしょう。
イネの土用干しと同じ理屈ですね。
(これ人間にも当てはまる)

トマトが実ったときのあの強い匂いもトマト作りの魅力かもしれません。
畑に入った誰もが、ああトマトの匂い、などと言います。
でも残念なことに、なかなか昔のあのトマトの味に出会えることはありません。
今は皆一様に甘く水っぽい品種ばかりになってしまいました。
(ミニトマトのほうがまだ味わいがあるような気がします)

トマトやきゅうりなどの夏の果菜類は次々に実がなるので、毎日収穫し続けなければならなくなり、売り捌くかどうかしない限り、どうにかして食べる工夫が必要になります。
だからそもそもの植える株の本数を、病気にやられることも見越して何本にするかから考えなければなりません。
下田での最初のトマト作りで思い知ったトラウマ体験です。
あの時はほかにもきゅうりやピーマンが豊作で…(笑)。

とはいえ畑で採ってきたトマトをナスやピーマン、かぼちゃなんかと夏野菜のラタトゥーユにしたら、簡単だけどわりと飽きずに食べられて、ああトマト作りも悪くないなと思ってしまったりします。

これだけあれこれ書けてしまうトマトって、やっぱりあんたが主役だよ。

2011年1月6日木曜日

インゲン豆

以前にも書きましたが、春物はトウ立ちしやすいのであまり積極的ではなかったのですが、ジャガイモやニンジンの他、インゲン豆がわりと作りやすく定番となりました。

同じ豆でも絹さやグリンピースは晩秋に種をまいて冬越しして初夏どりですが、インゲン豆は暖かくならないと発芽しません(4月の終わり頃)。
つる種つるなし種とがあり、なんとなくつるが茂るのもイヤなので、ウチではもっぱらつるなしでした。

種をひと晩水に漬けておき、1ヶ所に2~3粒ずつ、“千鳥(ちどり)まき”(千鳥が歩いた後のように左右互い違いに間を空けること)します。
ウネ幅は1メートルくらい。2週間ほどで発芽します。
約1ヶ月で白い花が咲き、気づくといつの間にか実がなっています。
実がなると重みで主枝が折れやすいので竹などで支えをします。
株自体はそれほど大きくならず、せいぜい50センチくらいでしょうか。
種をまいてから2ヵ月あたりから順次収穫していきます。
一時にまくとやはりいっせいに実がなってしまうので、時差まきでいけばわりと長く楽しめます。

豆類はとくにダイズがそうですが、まいた当初は鳥に狙われやすいので、発芽するまで寒冷紗(かんれいしゃ)などで覆いをする場合もあります。

それから一番肝心なのは連作しないこと。
豆の根は土中の窒素分をよく集めるので窒素過多になってしまうためです。
最低4年は同じ場所に豆類を植えてはいけないといいます。

インゲンは肉や魚の添え物にするのが好きです。あのキュキュッとした食感がたまりません。