2011年4月25日月曜日

アレルギーの子どもたちを助けて

阪神淡路大震災の時、被災したアトピーの人たちがとても苦労したという話を聞いた。

今回もアレルギーの子どもたちが避難所で食べられるものがなく困っているらしい。
各地のNPO等が支援に動いているようだが、なにしろ相当数の被災地があちこちに分散していてニーズに応え切れていない。

今回の震災で明らかになったことの一つが、主要幹線道路に頼った全国的な物流システムが案外脆弱だったということ。
これは地理上も致し方ないところがあるが、要するに中央があってあとはそれにつながる地方が点在しており、何かあった場合各地方が分断・孤立してしまい、自活できなくなってしまうということだと思う。

以前ちょっと暮らしていた伊豆の下田でも、よく「もし何かあったら完全に孤立する」と懸念する声を聞いた。
アレルギー食への対応は各地方自治体でさまざまなようだが、介護を必要とする高齢者や透析患者などと同様に明らかに把握しておくべきであり、各自治体の狭いエリアならば対応が可能なはずである。
普段から緊急用の備蓄としてシステムを作っておき、消費期限が迫れば割安に流通させるといったことも可能だろう。
なにしろ確実にニーズは存在する。

有事の際はまず第一に弱者が窮地に立たされ、そこから問題点が見えてくる。
だからまず弱者をカバーする対応をしながら地域生活の基本ラインを見極めていく。

食全体のシステムも地域が主体となること。

いつも言ってる地域自給だけど、復興再生のタイミングで発想転換できないだろうか、いい加減に。

2011年4月13日水曜日

土と生きる覚悟をした人

福島在住の住職、玄侑宗久氏は今回の震災および原発事故の最前線ともいえる御自身の地所に留まり続けながら、現地の生々しい声を送り続けている。

http://yaplog.jp/genyu-sokyu/

余震に怯えすっかり心が弱ってしまったかの地の人々、原発で戦い続ける現場作業員、そして放射能汚染の“被害者”に他ならない自ら命を絶った一農家。

自死の前日、男性はしきりに“むせる”ような仕草を繰り返していたという。
玄侑氏はそれを国や市場の無情な有り様に対する“吐き気”と表現している。

30年間土に語りかけてきた人が、ある日突然一方的に出荷停止を命令されてしまう。
土作りをして種を蒔いて水を遣ってやっと育った野菜を出すなと言われる。
この時期に出荷するためには前の季節から準備してようやくここに至る流れというものがある。
その流れが無になった。
この半年ほどだけの話ではない。
今年の収穫はこの30年の努力の結果なのだ。
たとえば30年生きてきた人の価値を認めないようなものだ。
それだけ土と一体になって生きてきたのかもしれない。
出荷停止を言われてから一日の間、人格の全否定に“むせる”ように嗚咽しながら耐えていた。
一日で死んでしまうくらい真剣にしごとと向きあってきた人。


勝手に想像してごめんなさい。