2010年12月24日金曜日

じゃがいもの話

これからしばらくは畑で作った野菜のいくつかについて書くことにします。

じゃがいもは冷涼な気候に適した野菜で、日本の温暖地ではに種イモを植え、初夏初冬に収穫となります。
秋に出回る新じゃがというのは、たぶん主産地が北海道産なのでずれているのでしょう。

家庭菜園をしていると本来の野菜のがわかるので、今の時季に出回るいちごなどには違和感を覚えます。
主産地という考えも、ある地域で単一の野菜だけを集中的に作るというのは、経済合理性があっても土地を傷めるので無理があります。

まず畑の準備ですが、日本の土は酸性土が多いため、ふつう耕す時に石灰をまいて中和するのですが、アルカリ成分が多いジャガイモの場合は石灰は厳禁です。

畑の土が酸性かどうか判断するのに、僕はスギナが生えているかどうかを見ます。
山口の畑はこのスギナがまったく見当たらず、したがって石灰は一度もまいたことがありません。

種イモにはウイルス感染の恐れがあるため、厳選されたものを店で買わなければなりません。
買ってきた種イモを半分に切ってから畑に植えつけます。
発芽まで3週間近くかかり、夏は植付けが早すぎると腐ってしまうので注意が必要です。
種イモからは何本かの芽が伸びてくるので、2~3本だけ残してあとは手でかきとります(芽かき)。
水やりが多いほど育ちもいいようです。
やがて2ヶ月半ほどで白か紫花が咲いた後、枯れてきたら掘り取ります。


さて同じイモでも、じゃがいもの他、さつまいも里芋など、皆違う分類になります。

じゃがいもはナス科の野菜で中南米原産です。
花を見るとたしかにナスの花と似ているのでなるほどと思います。
トマトピーマンとうがらしなどもナス科です。漢方的には陰性で体を冷やす野菜です)

里芋(サトイモ科)などは日本になじみ深いですが、タロイモなんかに近く(葉の形が似ている)熱帯原産ではないでしょうか。

さつまいもはじゃがいもと同じ南米原産の伝来作物ですがヒルガオ科つる性です。
分類が違えば生育時季や適地、調理方法、保存の仕方などが違ってくるわけです。
さつまいもが“風邪を引く”とは知りませんでした。
(収穫後、じゃがいもと同じように寒い所に放っておくとコチコチに固まって木片のようになってしまって食べられなくなります)

じゃがいもは同じナス科のトマトやナス(→ウイルス感染が多い)との連作(同じ場所に続けて作ること)に気をつけて作れば、冬場の保存もきくので重宝する野菜です。
種類もいろいろありますが、ウチではキタアカリという品種のファンです。
男爵系なのか、粉質でホクホクして独特の味があります。

2010年12月19日日曜日

アイガモ農法


合鴨(アイガモ)農法にトライしている県内の意欲的な農家を見学に行きました。

合鴨農法は日本ではもともと福岡県の農家が始めて今や全国に広がっている有畜複合農業の一種で、タイやベトナムなど東南アジアの国々でも昔からあるコメ栽培のやり方です。
田んぼの脇で鴨を飼い、日中は田んぼに放して雑草を食べさせそのフンが肥料になるため、除草剤や化学肥料の要らない有機栽培の米作りができるというものです。
春に幼鳥を仕入れ、田植え後しばらくしてイネがある程度育った頃に放すのでイネ以外の雑草だけが餌になり(田んぼではヒエなどがよく育ちます)、収穫後はしっかり太った鴨が食卓に上るというわけです。
(餌が餌だけに脂肪分などは少ないでしょうが安全な肉といえます)

去年の鴨をいただきました

鴨を狙うイタチなどがいるので周りに電気柵を張ったり(写真の青いネット)、そもそも田んぼの立地自体、なるべく天敵に飛び込まれにくい平坦な場所を選ぶなど苦労も多いとのことでした。
昔は日本でも農家にはたいがい牛や馬などの動物がいて、田んぼでの作業や荷運びなどに使っていたようです。
アジアの農地に行くと今でもそうしたのどかな風景が見られるようですが、日本同様しだいに失われていくのでしょうか。

このときは知り合いの子どもたちも連れていったので、田んぼを泳ぐ鴨を見て大騒ぎでした。
ついでに田植えも体験して泥まみれに。

泥沼状態

この翌年、なんとこの一家は自分たちで田んぼを借りて家まで建て、本当に米作りを始めてしまったのでした。

2010年12月16日木曜日

私の“こだわり”(2)

遺伝子組み換え食品が入ってきたとき、まずは自己防衛というか、ちょうど食事療法などで体質改善を図っていた時期だったので、これはひとまず避けておくものという認識で情報収集していました。

たとえば大豆の場合、豆腐納豆には表示義務がある(国産大豆使用もしくは輸入でも有機栽培とあればOK)が、大豆油には表示義務がないので一切購入しない。
ただ大豆は家畜の飼料にもなっていて、この場合ほとんど避けようがない(とうもろこしも同様)ので、肉自体を食べなくなったりしました。

とうもろこしを畑で作るときも、売っている種の袋を見るとほとんどがアメリカ産との表示なので使うわけにはいかず、地元の種を分けてもらったりしていました。

頑固な“こだわり”を持って“こだわり”の集いに参加したわけです。

健康の回復というはっきりした目的があるので、遺伝子組み換えに限らず、あらゆる食材に関して知ろうという思いがありました。
そして食を追究すれば自然と“農”や“生命”に関心は広がり、しだいに個人的な領分に留まらず広くとらえて考えたいと思うようになりました。
遺伝子組み換えにしても、知るにつれこれは自分ひとりの拒否ですむ問題じゃないなと感じていました。

要するに政治的な目覚めなのですが、集いではなにも不買運動を起こそうとか企てていたわけではありません。
とくに今回のような場ではその辺りがとても微妙で危険なところかもしれません。
小麦の話題で啓蒙的な試みをしたのも、顔見知りのごく個人的なつながりの中で自分の問題意識を問い掛けてみたい、とくにこの地域の場で考えてみたいという単純な動機からでした。

今でも当時の問題意識は持ち続けていますが、あの頃は新鮮でいい時代でした。

2010年12月14日火曜日

畑で性格診断?


見合い写真に使うか

ニューギニアのとある民族には、結婚前に相手の菜園を見に行くという慣わしがあるそうです。
つまり畑を見ればその人の人となりが大体わかるというのです。
なるほど、たしかに前々から自分の畑はよそと違って不細工だと感じていました。
細かい説明は省きますが、家庭菜園をやっている人が見たら、ああ、これはちょっとな…って感じるに違いないのです。

去年、久々に別の場所でまた畑をしたのですが、やっぱりいつもの感じになっていました。
まあひと言で言えば、細やかさに欠けるってところでしょうか。
作る野菜も偏っているし。
子どもの頃、絵を描くのが好きでよく描いていましたが、ある時期から自分の絵がいかにも自分らしいというか、いつもの感じになるのがイヤになってやめてしまいました。

畑も一種のアート、自己表現なんですね。

2010年12月12日日曜日

肉を食べるということ

こだわりの集いのクライマックスは、最終月に2週連続で鶏を調理する試みでした。

農作物の栽培に当たる飼育は無理なので、収穫すなわちシメることからでしたが、これが大騒ぎでした。
みずからの手で命を絶ち、感謝していただく、という貴重な体験ですが、日常はどこかで誰かがしている事実です。

※“いのちの食べかた”(原題Our daily bread)という映画でヨーロッパの現状がわかる。

なあんてまたエラソーなこと言ってる自分も初めての経験でした。

都会暮らしの大人が初めて鶏を殺すのはある意味とても興味深いものでした。
そしてシメてしまえばそれがあっという間に“もの”になってしまって、皆さばさばと作業を進めていたのがなんだかおかしいくらいでした。

今年、宮崎県で家畜の口蹄疫が広がり、殺処分された牛や豚は288,643頭だったそうです。
中には被害拡大を防ぐために健康なものまでが殺されました。
ニュース報道だけでは現場の実情がわからず、「ずいぶん機械的に処理するなあ」などと思っていましたが、じつは一人ひとりの畜産農家の思いは複雑だったようです。
プロはぼくらほどナイーブではないでしょうが、それでもせっかく育てた牛や豚を甲斐なく殺すことへの無念はあったでしょう。
口蹄疫自体は人の健康には影響しないが、畜肉の品質低下が値崩れやブランド価値の低下につながるらしい。
大規模な畜産と流通と消費のシステム上のトラブルであって、動物は機械的に処分せざるをえなかった。

肉食に関してはさらに家畜の飼料の問題があります。

現在主流の配合(濃厚)飼料は、大豆とうもろこしなどの穀物原料をほぼ100%輸入に頼っています。
2年前の世界的な食糧危機は穀物価格の高騰が原因だったそうですが、この穀物の高騰自体、中国をはじめとした新興国の肉食の急増が一因でした(中国も飼料用穀物を輸入しています)。
今や世界中が穀物を奪い合うような状況にあります。

金持ちは肉を食べて穀物をどんどん消費していきます。
そしてお金のない人は自分が食べる分の米や小麦やとうもろこしが手に入りません。

どこかおかしくないですか。

そして日本が輸入している大豆とうもろこしのほぼ100%が遺伝子組み換えです。

2010年12月10日金曜日

私の“こだわり”

パン作りを教える(犬は興味なし)

自分の体のことからはじまって、食、農へとしだいに関心が広がっていったときに、ちょうど参加したのがこだわりの集いだったわけですが、ちょっとばかり思い入れが強すぎたかもしれません。

その前年に日本で遺伝子組み換え農産物が一部認められ、流通し始めていたということなどが念頭にあって、共に考える機会になるのではという期待などがありました。

これもたまたまですが、その年の夏ごろから家で自家製酵母を使ったパン作りをしていたので、集いの中で自然の家の小麦を使ったパン作りの指導をすることになりました。
まあにわか仕込みですからその点は十分了解を頂いて、とにかくここで採れた小麦でパンがちゃんと焼けるのかどうかを体験してみようというわけです。

それまで家で各種の小麦を使って試行錯誤していたため、じつはその結果もわかった上でのある種啓蒙的な試みだったのですが(国産のいわゆる中力小麦グルテン不足のためふっくらしたパンは焼きにくい)、単に失敗してまずいパンを食べさせられたと思った人もいたかもしれません。

なにが啓蒙だったかというと、まずふだん口にしているふっくらやわらかパンの原料は輸入小麦であって、完全に外国に依存しているということ。
本来日本食には馴染まないパンが欧米型食生活の象徴としてすっかり日本の食卓に定着しているということ、などなど。
(年配の方々なら戦後の食糧難を経験され、すいとんやうどんを食べ、当初パンは“代用食”だったことや、しだいにお米を食べなくなったことなどに思いを馳せてくれるのではないか…)

啓蒙などと若輩者がエラソーなことを…と思われないように振舞ってはいましたが、期待を込めて議論を吹っかけたような感じだったのです。
果たしてその反応は…

2010年12月8日水曜日

バケツ稲

各種バケツを占領

自然の家ではふつう家庭菜園では作らないような作物も育てていました。

こだわりの集いでもソバをはじめ、大豆小麦こんにゃくいもなどを植えて、豆腐、うどん、パン、こんにゃくなどいろいろな加工品を作りました。

順序で言えば、集いの始まった夏の終わりにまずソバをまき、その収穫の頃に小麦をまいて真冬の1月に麦踏みをし、初夏にこんにゃくいもを植え付け、6月には麦刈りと大豆の種まきでした。(春以降の作業は集いの2期目)

メンバー各自が家庭で稲を育ててみようという試みもありました。
以前から聞いてはいた“バケツ稲”というもので、たしか子供用の学習キットをそのまま使いました。

まず種もみを数日水にかして(=漬けて)から、数粒づつをバケツ(底の深いもの)数個に分けて土に埋めます。
土は適当に用意したもので、とくに肥料などは入れなかったはずですが、水の調節だけでしっかり穂をつけてくれました。

夏の土用(7月20日前後からの10日間ほど)にはしっかり土用干し(一定期間水を抜いて根の張りをよくする)もして、稲の花の観察(開花日の朝、ごく短い間だけ見られます)もできました。

そして最後にとれたお米は茶碗一杯にもなったでしょうか。せっかく作った初めてのお米なので、しっかり食べたような食べなかったような…。
食べたとすれば、もちろんそれだけでは少なすぎたので別に米を足して炊いたのでしょう。

八十八の手間といいますが、それはちゃんと田んぼで作る場合の話で、われわれにお百姓さんの苦労がわかったとは言いがたいと思います。
ただ例えば子どものいる家庭ならいい教育材料にはなるでしょう。
都会の子どもには田んぼすら珍しいかもしれないので、日本人の基本として一度は体験してみるべきでは。

そういえば小学校の頃、校庭の片隅に田んぼが作ってあって、校長先生がひとりで淡々と稲を育てていたような気もするが…。

2010年12月6日月曜日

そばの花

いちめんに咲くそばの花。ここは天国か?

こだわりの集い第1回(8月20日頃)でソバの種をまきました。

10月にはきれいな白い花をつけ、月末頃の集まりで早くも収穫できました。
まいた後はほとんどほったらかしで手がかからず、逆に収穫後の脱穀作業が大変だということがわかりました。

収穫後しばらく軒下などに干して乾燥させ、筵(むしろ)の上で叩いて脱穀します。
そのあと唐箕(とうみ)という時代がかった道具を使って混ざったごみを吹き飛ばし、さらにわざわざ石臼を使ってそば粉にしました。

今回の行事では、食べごとの大変さを体験するためにあえて昔ながらの作業工程をとったのでしたが、こういった道具類が自然の家にはほとんど揃っています。

ちょうど近所にソバ塾という集まりがあり、有志数名で自然の家のソバを持参してソバ打ちを勉強に行きました。
このとき聞いた話では、そもそもソバは強い植物でやせた土地でも育つため、かつては山の斜面などで焼畑栽培もされていて、コメが不作の時の救荒作物でもあったとのことです(栽培時季と生長の早さで納得)。

今でこそやれ信州産だのどうのとブランドめいたことが言われるが、昔から日本各地でソバが作られていて土地には土地のソバがあり、本来それを味わえばいいのだと、うどんのような太いソバをしみじみと味わって食べました。

2010年12月4日土曜日

こだわりの集い

さて自然の家でのメインの活動は月一度の“食にこだわり暮らしを考える集い”でした。

自然の家の畑で作物を育て、それを収穫し、調理・加工して皆で食べるという体験を通して、普段の食生活やそれに付随する暮らしのあり方を見つめ直そうという趣旨の、主に大人を対象とした半年間の行事です。

毎回楽しかったのは皆で外でお昼を食べたことで、だいたい午前中は畑で体を動かすか、調理で大わらわだったので、いつもやや遅れ気味になるお昼はしっかりお腹もすいていて皆よく食べました。
20人ほどが協力してごはん作りをし(それもわざわざ羽釜でご飯を炊いたり、大鍋を使ったりするので火おこしから始まって大変)、自然発生的なリーダー格のおばさんの指示で皆てきぱきと動いて、食べることへの情熱ってすごいなあといつも感心していました。
(というよりただ食いっぱぐれたくないという切羽詰った行動だったかもしれません)

いい雰囲気?

はじめのうちはたしか畑作業もそれほどなく、前もって自然の家で用意した材料(もちろん自然の家でとれたもの)を使って、ひたすら作っては食べだった気がします。
おばさん連中にしたら日常生活の延長で自然に体が動いたのでしょうが、連れのご主人やこどもたちにしてみれば新鮮な体験だったかもしれません。
食事作りって(ほんとうは)こんなに大変なんだってことがわかれば、まずは第一歩だったのではないでしょうか。

そしてみんなでいっしょにごはんを食べるとこんなにおいしいんだ(こんないい空気の中ならなおさら)と自然に感じられたはずです。

からだでわかるってことが一番だと思います。

2010年11月24日水曜日

綿の木

先日、はじめて畑で綿を作っているのを見ました。



あの木綿の材料の綿花です。
聞くと観賞用で、孫のクリスマスツリー用でもあるとのことでした。
なるほど。

綿花栽培というと、アメリカの大平原で黒人労働者が一日中腰をかがめてつらい労働に従事している、といったイメージですが、今でも木綿は流通しているのだから、インドか中国か、どこかで似たような労働状況があるのでしょうか。

江戸時代には日本でも国中で栽培されていたものの、国際競争に負けてあっという間に消えてしまったらしいです。

畑の人の話では、近くに綿から糸を紡ぐ人がいるらしく、もしかして着るものまで頑張って自給自足しようとしているのかも。

2010年11月21日日曜日

しんどい農作業

自然の家での仕事は週2~3日ていどでしたが、さすがにこれだけの規模での農作業というのは大変でした。

なにも出荷が目的ではなく、自然教育のための田や畑ですから基本的にはのんびりとした雰囲気でやっているのですが、体力のなさをあらためて知らされました。
山の斜面にもあちこち畑があるので、車が入らない場所には猫車(一輪車のこと)に肥料袋を載せて運ぶのですが、これが重くて上がらない。

そして一番しんどかったのが堆肥の切り返しというやつで、ひと夏に刈った草の山に土とEM菌などの発酵資材(家でやっていたのはこれの簡易版)を混ぜて、毎回山をフォークで掻いて天地返しします。
これを繰り返していると発酵が進んで次第に山が小さくなっていき、最後は本当に土の塊になってしまったところで田んぼに入れました。
慣れもあるんでしょうが、年下の職員がてきぱきと作業をこなすそばで情けないほど体が動いてくれません。

はたまたイノシシよけのフェンス作りで竹を割らされて不慣れなナタなど振るってみたり、耕運機を誤って畔に倒してガソリンを田んぼに撒いてしまったこともありました(ごく少量でしたが)。

まあそれでも心地よい疲労感のなかで夕日を眺めたり、作業の合間に棗(なつめ)の実をつまんだり、栗拾いをしたり、と深まりゆく山の秋を満喫できて最高でした。

2010年11月19日金曜日

自然の家

大田原自然の家
山口でもまた良い自然食のお店とのつきあいができ、そこからの情報で、今度は市内の山中にある廃校を利用した自然教育施設との縁ができました。
主に市内の学童を対象にして、周辺の山々の自然の中での遊びや、田植え体験、野菜の栽培~収穫した作物を使っての調理体験等々、これが市の中心部から車で30~40分程度の距離にあるというのも地方ならではです。

さてそこで、今度は大人を対象にして、畑で作物を育て、収穫物を調理し、そうした体験の中から暮らしを見つめ直そうという社会教育的な年間行事があり、ちょうど体調も回復してきた夏の終わり頃にうまいタイミングで参加することになったのです。

そしてさらに若気の至りの図々しさで、ほとんど無理矢理お願いして、短期間の農作業アルバイトをやらせてもらえることになったのでした。
(これもまた今にして思えば…というところですが、この強引さというか勢いみたいなものって時には必要なのかも…と自己弁護)

ここでの経験は1年ちょっとの自己流畑作りから発展して、より規模の大きい本格的な農作業のノウハウを知り、なによりこういった環境の中での人づきあいというのは本当に幸福な時間でした。

2010年11月18日木曜日

自家採種の試み

ふつう野菜作りをするときは園芸店などで売っている市販の種を使います。
大部分の種には毒々しい色のコーティングがしてあり最初ギョッとしますが、畑に蒔くとき目立つので便利かもしれません。

それ以上に問題なのがF1種(一代交配種)で、ほとんどすべての市販の種がこれです。
種苗メーカーが作物に固有の性質を与えるため掛け合わせて作った種で、その性質はまさに一代限りのもの(メンデルの遺伝法則)で、できた作物から自分で種を採っても次第に性質が劣化していきます。
だからプロはもちろんのこと、私らアマチュアも毎回なんとなく種を買うことになるのです。

いっとき、本当なのか?と思って春に大根のトウが立ったのから種をとって蒔いてみましたが、なんと言うか出来が一様でなく、たしかに初回と比べて落ちる感じでした。
中にはたとえばオクラの種などはわりと使えるように思いますが、やはりF1種なら同じことなのでしょう。

自分で種が採れないなんてじつは変な話です。

そのうち在来種の保存のため自家採種している農家の存在を知りました。
近ごろ地方独自の伝統野菜が見直されているし(京都の加茂なすや聖護院大根とか)、もともと地元に根付いていたはずの野菜を残そうという動きです。

私のもとにも地元で作り続けているというトウモロコシの種が手に入りました。
いわゆるスイートコーンではなく、紫色のもちっとした食感で、これがわりとよくできました。
やはり気候風土にあったものは作りやすいし、それを食べているのが自然な姿なのだと実感できました。

2010年11月17日水曜日

暑さ寒さも彼岸まで…

と言われますが、種まきの時季でもあります。
南北に長い日本では土地によってもちろん時期がずれるし、最近は気候変動のせいか、お彼岸の頃ではまだ季節の変わり目とはなりません。

それでも一応の目安として考え、これまで春秋の種まきをしてきました。

はじめての春の種まきでは、やはり本を参考にしてニンジンだけにしました。
春大根などもあるのですが、春に蒔くとトウが立ちやすい(花が咲いてしまって根が太らない)というのでやめたのだと思います。
他の畑では早めに蒔いたりしているのか(露地栽培だと芽が出ないはずなんですが)、上手に作っているところもあります。

その後逆に種を採るために大根を蒔いたりするのですが、最初の時はとにかくやめておきました。

とうが立つとこうなる(人間ではなく、野菜のほう)
 ニンジンだけに期待をかけて待てど暮らせど芽が出ません。
ひょろひょろと何かの芽が出てきますが、どれもニンジンではないようです。
失敗か、とあきらめかけた頃、3週間以上経ってようやく発芽しました。
ふしぎと他の雑草とは違うのがわかります。
どうやら土を厚くかけすぎていました。
水やりができなかったのも原因だったようです。
ニンジンは一般的に発芽しにくいそうですが、未経験のためひやひやさせられました。
その後何度か間引きをして、結局3ヵ月後に収穫となりました。

ニンジンは発芽が一番問題で、あとはていねいに間引けばわりと作りやすい野菜です。

2010年11月14日日曜日

山口での初収穫は

山口で畑を始めたのは11月だったので、さてこれから蒔いて芽が出るものがあるのかしらと調べると、どうやら豆類らしく、とりあえずえんどう豆(絹さやとグリンピース)を蒔き、あとはイチゴの苗を植えました。

植物にはそれぞれ発芽に適した温度があるらしく、しばらくするとちゃんとマメが芽を出しました。
土に埋めたタネはすぐには芽を出さず、しばらく新たな環境を探っている感じです。
蒔いたタネが芽を出してくれると、なんだか野菜からOKサインが出たようでいつも嬉しいものです。

年末ごろになるとかなり冷えて、ひょろっと伸びたマメもいったん成長が止まったようでしたが、春になると再び伸び始めたので近くで細めの竹を取ってきて支えをしました。
4月下旬あたりから花が咲いて実がつき始め、ゴールデンウィークころには食べごろの実をちぎって初収穫となりました。
それからは次々と、連日通って数日で収穫し終わりました。

イチゴも同じころにちゃんと実がなったので嬉しかったのですが、熟れてくると何かの虫が穴を開けていて(あとでナメクジだとわかった)、人間はその食べ残しを分けてもらう感じになりました。
そのころ体調が良くなかったのですが、春の日差しの中のイチゴ摘みは楽しいものでした。

今回の経験でマメは冬越しをして春にとれ、イチゴの旬もじつは初夏だということがわかりました。

2010年11月12日金曜日

100円市

いま田舎は農家直売のいわゆる100円市が熱い。

実際は100円以上の商品もあるが、中には100円以下で、「え、なんで?これで利益出るの?」と思わず言いたくなるものまである。
そこで売り子=生産者のおばちゃんに聞いてみると、「ええの、ええの、市場には出せんもんじゃから」という答えが返ってくる。
かと言ってそれほど見栄えの悪いわけでもなく、鮮度が落ちるということもないだろう。
その基準がいまだ判然としないが、まあ要するに「余ったから一応100円ということでお分けします」くらいの感覚なのではないか。

家族がこちらに移って以来、とくに母がこの直売所のファンである。
何人かとは顔見知りらしく、「この前のかぼちゃはイマイチだった」とか、「〇〇のごぼうが入ったらとっておいてほしい」などというリクエストにも気軽に答えてくれるらしい。
この農家の人とのコミュニケーションがいい。
野菜やお米の出来など教えてもらい、こちらはズッキーニ(まだ未開の野菜らしい)の調理法を教えたりする。

熱いファンがいる一方で、まだまだこれを知らない人も多いらしい。
知っていても利用しないのか、まあスーパーほど品揃え豊富というわけではないからね。
知る人ぞ知るというほどでもないが、それほど大繁盛もしないままのほうが自然かもと思ったりもする。

2010年11月11日木曜日

身土不二

身土不二(しんどふじ)ということばがあります。

身(からだ)と土(土地)とは不二(二つにあらず、一体のもの)、すなわち人はその生活する土地の気候風土と不可分であると言う意味。

食養生の観点からは、暮らしている場所から三里(約12キロ)四方(=歩いて行ける距離)で手に入る旬のものを食べていれば健康でいられるということです。
近頃よく聞く“地産地消”に近いかもしれません。

さて話がすこし大きくなりますが、最近日本が国際貿易をめぐる新たな多国間協定への参加を進めようとしています。
これにはとなりの韓国の積極的な動きがかなり影響していて、似たような貿易戦略上後れをとってはいけないということのようです。
でも貿易の自由化で一番にダメージを受けてしまうのが農業なのは日本も韓国も同じです。
聞けば韓国でもほぼ日本と同様な状況で、国内の農業人口は激減し、畜産飼料の輸入依存をはじめとしてコメすら完全自給できていないとのこと。
いっぽう今の韓国はすごい勢いで製造業の輸出攻勢をかけ、アフリカ等海外の資源開発、農地すら海外で確保しようと躍起になっています。

その韓国でじつは80年代終わりの自由化交渉のとき、“身土不二”(シントブリ)の一斉キャンペーンがあったのです。
すなわち身土不二の理念を掲げ、国の食料は国内でまかなっていくべきだとして、農協主導で国内農業保護のために自由化反対に動き、いかにも韓国らしいというか国中がこれで一気に盛り上がったとのことです。
これをたとえば日本で生協が主体となった“地産地消”運動がこれほど盛り上がるかどうか考えても、ある意味うらやましい韓国のパワーを感じます。

…なのに、です。
その韓国のパワーがいまは上述のように、まるで国内の農業を捨て去ったかのような方向にばく進しています。
海外での農地確保ということになれば、もう身土不二とは180度の方向転換になってしまいます。

思うに身土不二とはそもそも国の政策のスローガンとしては相応しくない、ローカル発想の草の根的な思想なのです。
だからむしろ逆の方向から、国内の地域ごとに各地域の特性に適った農業と食生活を確立していき、その総和として一国の姿勢があるのが本筋です。
日々の暮らしの実感からは地産地消も理解されやすいのですが(地元産野菜の百円市など)、中央官庁主体の発想では国の農業もなかなか変わっていけません。

たとえ自由化に伴って海外の安い農産物がどっと押し寄せても、「わたしたちは近場で採れた新鮮で安心なものしか食べないので…(ほんとうはそれが一番安上がりになる)」という確固とした主体性をまず日本各地の住民が持っていれば、日本の農業が衰退することもないはずです。

ヨーロッパ発のスローフード運動も似た発想で、国もこれに理解を示し、実は手厚く自国の農業を保護しています。
残念ながら日本は流通業(=高コストの原因)から何からシステムががんじがらめで、国民も全国一様の消費形態(テレビCM、どの地方へ行っても同じような全国チェーンの店…)に慣らされてしまって地元の本来のよさを忘れています。

スローフードがファストフードに対するアンチだったように、身土不二もある意味逆境からの発想(失った健康を取り戻すために基本に還る)なので、追い詰められた今こそ国民に訴えるのでは。

ここ数日のニュースから、土にかんする話題をすこし広げてみました。

2010年11月9日火曜日

土のある暮らし

生ゴミの堆肥化リサイクルによって畑しごとがより生活に密着したものになりました。
畑で収穫される野菜を食べ、その残りかすをまた畑に返し、といった繰り返しで多少なりとも食の循環を意識できます。
畑に埋めた生ゴミ堆肥(ボカシ肥)は、その後しばらくして掘り返してみても、跡形もなくみごとに土に還っているようです。
これはまさに“土を喰う日々”。

最初は生ゴミを扱うことにやや抵抗がありましたが、当時はわりと厳密な玄米食をしていたため動物性のものも少なく、あまりイヤな臭いもしなかったのです。
人によっては江戸時代のように“下肥”まで有効活用した完全リサイクル生活を試みるようですが、まあ好きずきということで…。(だいたい畑までどうやって運ぶ?)

最近は“エコ”ということで電気を使った生ゴミ処理機などいろいろありますが、都会生活ではそもそも埋める場所がないのでは?

ベランダがプランターだらけになるぞ。

2010年11月8日月曜日

土の話

新しい畑の土は前にやっていた人が丹念に土作りをしていたらしく、まわりの畑と比べても明らかに黒々としたいい土でした。
なにしろもともと宅地ですから、ひどい土だったはずです。
宅地造成の際、ふつう強度を上げるためかもとの山土をわざわざ入れ替えたりするのです。
前の人は有機栽培のための堆肥や、海砂(水はけのため?)を入れたりもしたそうです。
たしか国内の有機農産物の基準でも、過去数年以上の無農薬および有機堆肥による土作りがなされているものとなっていたはずだし、はじめから好条件でのスタートでした。

山口の自然食品店からの情報で、家庭の生ゴミを堆肥化する方法を知り、さっそく実行してみました。
毎日出る生ゴミを専用の密閉式のバケツに移し、ボカシという微生物のタネのような粉末を毎回少しづつ混ぜ合わせて、バケツがいっぱいになったら2週間ほど置いて発酵させます。
生ゴミの悪臭が消え、漬物に似た独特の匂いがするようになります。
これを直接、畑に溝を掘って埋め込みます。
結局我が家の畑の堆肥はこれだけでした。

以来数年のあいだ生ゴミを一切ゴミとして出さなかったことはわりと自慢にしています。

2010年11月6日土曜日

山口に移転

結局下田を1年半ほどで引き払って山口に移ってきましたが、幸運にもほどなく知り合いのつてで再び近くに畑を借りることができました。
田舎は本当におおらかというか、またもやタダで使っていいというのです。
ただこのたびは住宅団地の一角の空き地で、前回とは環境がまったく違いました。
今回も家から車で15分の距離だったのですが、同じ距離でも前回のように山の中を通って辿り着く清々しさはありません。
山の中と住宅地とでは来る虫が違ったりして、作物の出来にずいぶん影響するらしいということもあとから徐々にわかってきました。

そして山口でも畑の師匠ができました。
親戚のおばさんが家の庭で畑をやっていて、たびたび見に行くうちに親しくなりました。
おばさんは自分専用の一室で畑の大根の古漬けやら作っていて、田園生活っぽさにも憧れたのです。
おばさんとは不思議と気があったようです。

でも残念ながらぼくの畑を見てもらうことはありませんでした。

2010年11月4日木曜日

収穫祭

ジャングル状態の中のトマト
下田の畑は残念ながら数ヶ月で中断となってしまい、収穫物をだいぶ残したまま去らねばなりませんでしたが、後々につながるきっかけとなりました。
畑に関するあれやこれやを知るのは、このあと山口に移転してからになります。

はじめての畑では野菜の生長に追われるようにただあたふたと作業した感じでしたが、ひさしぶりに土に触れ、暑い盛りに草取りに汗を流し、いろいろな人たちとの交流がありました。
野菜ができすぎて困ったあげく、いつもの勉強会に持ち込んで皆に味見してもらったとき、「ぼくが畑で作りました」と言うと、「作ったのはあなたじゃなく、神様でしょ」と言われたのが印象に残っています。
たしかに考えてみればぼくが畑で這いずり回っているあいだ、野菜はひとりでにどんどん成長していきました。
支えを立てたり、芽かきをしたりと、いくぶんかの助けはしたようなものの、それも人間の都合というか、収穫上の便利さからのことで、たとえこちらが何もしなくとも野菜自身の生命には何の不都合もない。
ただスイカの失敗例からも、やはり植えてしばらくは周りの草を抜いてやらないと負けてしまうのもたしかで、栽培植物の弱さということも知りました。

プロの農家ではないので、野菜畑で自然と遊んでもらったとおおらかに考えておくことにしましょう。

k氏(右端)「taoもすっかり酒が抜けて元気そうだな」
e氏(中央)「しっかり毒も抜けてます」
tao(左端)“oops”


2010年10月31日日曜日

畑で弁当

もういやっ、てほどピーマン
下田の畑もだいぶ進み、もうピーマンも実っています。
この日は玄米ご飯の弁当持参で長時間作業したのでした。
そういえばトマトなども摘んで食べました。
しかしやっぱり植えすぎですね。
死ぬほどピーマン採れました。

2010年10月29日金曜日

収穫のくふう

前回の最後のくだりで同じ野菜が一気に取れるということを書きましたが、その後経験を重ねていろいろと工夫するようになりました。

たとえばニンジンの場合、最初は買ってきたタネ一袋を全部蒔いてしまったものですが、半量づつ春と秋に蒔くとか、大根などは1週間~10日ほどの間隔をあけて少しづつ蒔くと(時差蒔きと呼んでいる)、冬の間わりと長く適度に収穫が続くなどといったことがわかってきました。
夏の野菜は実をとることが多く、ひとつの株から次々になるので株自体を植えすぎないことです。
キャベツや白菜などはそれこそ一球で十分な量になり、絶対に食べきれなくなるのでわざわざ畑で作ったりしません。(虫食いもひどくて難しいし)

タネの袋などには営業農家向けのやり方が書いてあるので、こういったことはやってみないとわからないのです。

2010年10月27日水曜日

食べごとへの興味

下田で生活を始めるに当たっては、まずちゃんと食べることが第一でした。

すでに玄米を中心とした食事にしていたので、何を食べるかという点では迷いがなかった。
最初に下田を見に行ったとき、幸運にも自然食のお店を見つけて、この土地にひとつ安心というか、ある意味決め手にもなったのでした。
そして自分ひとりのためとはいえ、来る日も来る日も食事作りをすることになったのですが、これが意外と面白い。

まず一番時間のかかる玄米ご飯炊きから取り掛かり、頃合いを見て乾物などを水戻しし、汁物のだしをとり(ちゃんと昆布とかつお節とで)、野菜を洗って、煮もの(野菜によって煮えやすい順が違う)、焼きもの、炒め物はできたてがいいので最後に、という具合に段取りがあって、これを次々にこなしていくのはなんだか単純に面白い(慣れてくると切れ目なくやれ、時間のめどが立つようになる)。

毎日繰り返していると知らぬ間に手際がよくなってくるし、食材の特徴を知って工夫も出てくる。
そのうち畑からの収穫が出てきて、これをどう調理しようかと考えます(同じ野菜ばかり次々できてくるので)。

男の家庭菜園というと畑の中で汗を流して、というイメージがありますが、できた野菜をどう食べるかがモンダイなのです。(食べきれないぶんはおすそ分けです。もう喜んで)

2010年10月26日火曜日

畑作業で一番面倒なこと

抜けども抜けども…
それは草引き(雑草とり)です。
とくに夏の畑は雑草の天国なので、はじめから思い知らされました。
わたしは要領が悪いので全体を適度にということができず、どこか一部分を集中的にやってしまい、いつも時間切れで終わってしまいます。
草取りに関しては大雑把な性格のほうが向いているかもしれません。

自然農法などでは雑草も抜かないらしいので、すこし真似してみようかとも思うのですが、つい気になって取ってしまいます。
はじめのとき、手が回らずに一部草ぼうぼうになってしまったのですが、そこに植えたはずのすいかの苗は見事に枯れてしまいました。
やはり植えてしばらくの間は草に負けないように管理が必要なようです。

まあ、草と遊んでいるくらいの気でいたほうがいいのかもしれません。

2010年10月24日日曜日

taotao?

2008年の1月、ひさしぶりに東京へ行き、これまたひさしぶりに上野動物園で老パンダ(リンリン)を見ました。
ところがそれから間もなく、4月にはリンリンは死んでしまいました。
まったくの偶然でしたが、リンリンの最後を看取れたような気がしました。

小学校時代の自分のあだ名もリンリンだったし。
「ねえ、ごはんまだ?」
「さっき食べたでしょ」
プロフィールの写真はその時撮った哀愁漂うリンリンの後ろ姿ですが、taotaoタオタオ=道道)と名づけました。

2010年10月22日金曜日

食べることからはじまって

そもそもなぜ畑になど興味を持つようになったかというと、自分の食事作りをするようになり、さらにその素材にも気を使うようになっていたからです。
いわゆる自然食品店に通うようになっていましたが、加工品は別として、野菜や米などは出どころがはっきりわかっているに越したことはありません。
それなら自分で作れば一番いいだろうと誰しも思うことで、その点田舎は都会と比べ恵まれています。

問題は自分が下田という土地ではよそ者だったということです。
やっぱり人の縁というのは大切です。

縁ということでは、下田に来て間もなく、例の海への散歩道の途中にあった干物(ひもの)やさんと馴染みになれたのも幸運でした。
海の幸と畑の野菜(米は畑の師匠が作っていました)で食生活は完璧、というわけです。

思えば食べごとを通じて人づきあいが広がっていった気がします。

2010年10月19日火曜日

畑の条件

畑を始めてからわかったことですが、よそに借りてやる場合、
①家から畑までの距離
②畑の規模
③日当たり
④水の確保
などを考えなければなりません。

この点では、
①→車で15分かかり、通うのがだんだん面倒になってくる
②→とにかく全体で100坪以上はあろうかという…
③→これは問題なし
④→すぐそばに川が流れているが、いちいち汲んでくるのは大変

とくに①はわりとネックになり、夏作の場合は1週間もほっておけば草ぼうぼう、実はなり放題。
そしてもちろん車の燃料代が馬鹿になりません。
②に関しては、なにも土地全体を使う必要もないのですが、最初はそういうことがわからない。
そして規模が大きければそれだけ収穫物も増える…ということもはじめはわからないのでした。
④の水やりは、そもそも通いなので毎日できず、そのうち考えなくなる。

いろいろ具体的な問題点が挙がってくるにつれ、己の無知・無分別・非常識等が明らかになってゆくのでした。

2010年10月17日日曜日

今にして思えば…

さて、下田にて畑を始めた当時のことですが、いま振り返ってみるとまあ気楽なもんです。
基本的には私の世間知らずというのがあるのだけど、何か始めるときは頭を真っ白にして思い切って飛び込んでみるというのも、人によってはいいのかもしれません。
信頼関係ということでは、下田に来てこの畑に関係する人々と知り合いになって1年近くが経っていました。
この下田時代というのは本当に人間関係に恵まれまして、例の自然食屋さんから次第に人の輪が広がっていき、地元の自然や健康などを考える集いに参加するようになって知り合ったのが、今回の私の畑の師匠だったわけです。
一緒に山歩きをしたり、個人的な相談などもするようになって、少しずつ打ち解けていったのだと思います。
だからある意味では機が熟していたのかもしれません。
畑に関しては色々な面で先方にはずいぶんと負担をかけていたのですが、「まあいいからやってみろ」というカンジだったんだろうな、今思えば…。

そして初夏の清々しい午前のこと、初めて鍬を握り、ひたすら一直線に伸びる畑の畝を掘り進む自分がいました。

2010年10月15日金曜日

遅ればせながら

周囲に刺激されて本ブログを始めることにしました。
内容は地方移住以来ほそぼそと続けてきた(現在中断中ですが)畑の話です。
とりあえず回想形式で思い出すままに書き綴っていきたいと思っています。

そもそもの始まりは伊豆下田暮らしの頃にさかのぼります。
近くの海岸までの散歩の途中、野菜の畑がきれいに作ってあるのを見ながら、そのうち誰かあたりのおばちゃんと知り合いになって、畑作りを教えてもらおうかなどと考えていたのです。
1年が過ぎた頃、自然食のお店をつうじて知り合いになった方から、「畑をやろう」と声をかけてもらいました。
場所は車で15分ほどかかる所でしたが、タダで借りられるとの話でした。
今思えば初心者がやるにはあまりに広すぎる畑でしたが、さして考えず導かれるまま鍬をふっている自分がそこにありました。
5月の初夏、新緑が眩しいころでした。