2011年2月26日土曜日

臓器提供は若者優先?

先日聞いたCNNニュースでは、最近アメリカで脳死からの臓器提供を従来の登録順ではなく、年齢の若い順にすべきだという意見が出てきているという。

提唱者いわく、「車だって20年経った中古車に最新のパーツをつけたって意味がないでしょう」だって。
さすが自動車の国。

昨年の日本の改正臓器移植法施行時の2ちゃんねるの書き込みを見るとblackなコメントが飛び交っていたが、そうした悪ふざけがことごとく正論に感じられてしょうがない。

現実のほうがはるかにグロテスクなのだ

先だって日本の心臓移植の先駆者が他界した。
手術は1968年に行われたが、同年、意図してかどうかは不明だが、まんが家の楳図かずおが「奪われた心臓」を描いている。

事故により回復不能と診断された少女から生きた心臓が取り出されることになる。
少女には実はまだ意識があり、必死に訴えようとするのだが体が動かせない。
やめてーという恐怖の叫びの中、心臓が取り出される…。

なんとこれとまったく同じシチュエーションが実在したらしい。
それもアメリカで。

とある青年が事故で脳死と判定され、彼がドナーとなる意思表示をしていたことがわかって、あとは摘出手術を待つばかりだった。
ところが青年には医療関係者の親類がいて、慎重に検査したところ、痛みに反応したので手術は中止となり、その後当人は奇跡的に生還を果たした。

テレビで見たが、彼はその後社会復帰し、結婚もして今では普通の生活をしている。
その彼が語っていた手術直前の恐怖の体験はまさにあの「奪われた心臓」そのものだった。

ありえる話なのだった

楳図ワールドが現実化してる、いまの世の中。

2011年2月22日火曜日

給食費を払わない?

前々から全国的に問題になってはいましたが、今ちょうどニュースで県内の話を耳にしたので書かねばなるまい。

山口県では2009年度、小中学校で全体の0.2%強、額にして1年間で1000万円近くが未納とのこと。
市によっては未納分を引いて全体で等分して食材を購入するため、それだけ単価を安くせざるをえない、すなわち未納者を含む全員の食事の質が低下するということです。

この事実をちゃんと未納の親に説明すれば、ひとりのタダ食いだけでは済まされないことがわかるはずだと思うのですが。

もちろん経済的に払えないという家もあるので救済措置があります。
でもたぶんニュースになるということは、払えるのに払っていない家庭が大部分だからなのではないでしょうか。

実際、いつだかテレビで、教師がそういう家に催促に出向くと、高級外車などがある立派な家だったというのがありました。
親は「今月は携帯電話の支払いがかさんでちょっと払えない」などとほざいておりました。
支出の優先順位はどうなっているんでしょうか。
子どもにはどう言っているのでしょうか。

いつか近々、いまの日本の家庭の食がどうなっているかということを書こうと思っていたのだが、食がどうこうより、まず生き方そのものがどうなってるんだという話。

もんすたー親たちは、おそらくものすごくひねこじれた理屈をこねて教師たちを困らせるのだろう。

2011年2月16日水曜日

東京を離れて失ったもの

田舎に来て、畑などに接する機会ができた一方、東京育ちを引きずった趣味の方面では事欠くことが多かったのも事実だ。

まずレコード・CDに関しては、当初からあきらめていたのでほどなくHMVオンラインショップでの購入がメインとなった。
地元には老舗のレコード店もあったが、2001年に閉店(クラシックのコーナーも充実していて地方の店っぽかったのに残念…)。
そしてなんと去年には渋谷のHMVまでが閉店。
時代だったのか…。

次にだが、移った当初から地方ならでは、チェーンの大型書店が幅を利かせていた。
じきアマゾンを使ううち、書店で注文するより断然早いのでこちらが購入のメインに(横柄な地元老舗書店の対応も原因だ)。
この10年ほどで全国的にも書店の数が激減していったが、山口県は全国でも4位の減少率だそうだ。

レコード屋も本屋も、店に足を運んでこその出会い(商品はもちろん、時には店員も)や、そもそも店に行く喜びが大きかったのだが、店自体がなくなっちゃうんじゃ、しゃーないやな。
もう地方には大型店しかないが、大型店は概してつまらん。
とくにこういう業種はそう。
都会はまだましで、個性のある小店舗が生き残れる余地がある(多種多様な人種がいるので)。

世の中全体が激変していったこの15年ほどを地方で暮らして、よりいっそう画一化を感じた。
たまに東京に行くと実感する。
古本屋もこっちにはもうブックオフしかないし…。


近ごろは金もないので、本もめったに買わん。
図書館を有効活用しておる。
リクエスト(月一度)にも応えてくれるし、家からオンラインで蔵書検索できるようになったし。
本屋よりずっと品揃えもよい。
司書の対応もよろしい。

地方にはライブハウスもあまりないし、文化会館にはきみまろとかしか来ないので(とほほ…)、いつの間にかクラシックファンになったのが収穫かもしれない。
地方にはクラシックなら来るのだ。

やや遠いが、地方ならではの小ぎれいな小ホールなどもあって、そこでソプラノの森麻季とかギターの大萩康司を見られたのは幸運だった。
(ここにはいきなり海外の大物が来たりする)
NHK公開録音とか(いかにも地方!)、いちおう第九も見に行った。

東京に住み続けてたらここまでクラシック聴くようになったかどうか。
とにかく来るものなら手当たり次第という感じ。
(地方公演は気の毒なくらい安いのがある。2000円とか)

ためしにクラシックの雑誌など見ると、東京はもうヨリドリミドリではないですか。
ただ高すぎる。
東京のクラシックは敷居が高い。

2011年2月13日日曜日

照葉樹林文化

数年前、宮崎県の綾町というところを何度か訪れました。
ここは全国でも珍しく昔ながらの照葉樹林の森が残されている場所なのです。

照葉樹林とは簡単に言えば、シイカシツバキなど、葉の表面に光沢があって一年中落葉しない常緑広葉樹の森林のことです。

近年の杉・ヒノキの植林によってもうほとんど見られなくなってしまいましたが、この綾の森では植林事業にあえて異を唱えることで、この貴重な原始の森(といっても人の手が入ってはいますが)が守られています。


はじめてこの森を見た時はブロッコリーだ!と思いました(誰もが一様に感じるらしいです)。
色とりどりでモコモコした見慣れぬ森は、かつて西日本一帯に広がっていたそうです(屋久島の“もののけの森”もそう)。

そしてこの森はさらに中国の雲南地方を中心とした華南一帯、台湾、ブータンにまで広がって、文化的同質性を持ついわゆる“照葉樹林文化圏”を形成しています。
それは焼畑農業養蚕発酵食品といった自然由来のものから入れ墨などの各種民俗的慣習まで、ふしぎと日本古来の文化と共通した特徴を持っているものです(印象的なのはモチを好む傾向。“もちもち食感”はこの辺でも売れるかも)。

森林はその土地の気候風土の象徴であって、そこに生きる人間はその自然の有り様に規定されて生きざるを得ないので文化的共通性を持つのが当然なのです。

これからの日本がどういう方向へ進むべきか、依然アメリカをはじめ西洋先進国に歩調を合わせていくのか、あるいは地域的一体性を持つアジアのほうを向いていくのかといったことを考えるとき、この照葉樹林文化というのはひとつのヒントになる気がしています。

2011年2月8日火曜日

Good bye, Gary Moore

近年、自分も年をとったせいでしょうが、思い入れのある人物の訃報に接することが多くなりました。
2月6日、スペインにて死因は不明ですが、あのゲイリー・ムーア氏が亡くなったそうです。
享年58歳

ギターに夢中だった頃のアイドルの一人で、もちろん来日コンサートにも行きました。

あの早弾きはまったく真似できませんでしたが…。

彼のギターは早弾きだけじゃなく、泣きのフレーズも印象的でした。
そんな彼の代表曲です。



今頃、ふたりで天国でセッション中でしょうか…。

ご冥福をお祈りいたします。

2011年2月6日日曜日

あこがれの自給自足

畑で野菜作りを続けるうち、野菜くらいはウチで自給できるのではないかなどと言い出すようになります。
そしてとくに収穫期の食卓などを見回して、今晩の“我が家の自給率”論議に花が咲きます。
もちろんそれは基本的な食品を自由に買える現実内での他愛もない空想に過ぎません。

現在、日本国内には約500万haの農地面積があるそうです(休耕地も含めた耕作可能面積)。
農水省によれば、その国内の農地だけで現在の日本の人口が必要とするカロリー摂取量をすべてまかなえ、その場合の食事の内容は、毎日ご飯2杯サツマイモ3本ジャガイモ3個焼き魚1切れぬか漬けリンゴ4分の1個は必ず食卓に上ります。
味噌汁うどんは2日に一度、納豆は3日に2パック、牛乳は6日に1杯、は7日に1個、は9日に一度100gだけ、は1日に小さじ0.6杯分しか使えません。
(以上、必要最低限のカロリー量を最優先した数字です。野菜なんかはどうなるんでしょうか)

現在、内外価格差の関係で小麦大豆の自給が落ちていますが、それを再開させたとしてもいまの人口ではこの程度しかまわってこないのです。

でもこのメニュー、じつはとても健康的ではないでしょうか。
ご飯も精白米ではなく玄米にすれば栄養度は高まるし、その他の副食の割合なども玄米食の内容に近いのです。
野菜も各家庭で季節ごとに採れるものだけを食べることになりますから理想的です。

アホくさいユートピア幻想と一蹴されるかもしれませんが、農産物完全自由化になって食料はすべて海外に、となるよりずっとマシな話です。

言いたいのは、この数字がほんらいの日本の基本ラインだということです。
現在の日本の食のあまりの不自然で不条理な有り様がよくわかると思いませんか?

2011年2月2日水曜日

インゲン豆を守る人々

先日テレビで、北海道の開拓農民が在来種の豆を今でも大切に守っているという話を見ました。
その豆というのが金時豆うずら豆などで、じつは皆インゲン豆の仲間なんですね。
以前ウチの畑で作ったインゲン豆のことを書きましたが、あれはサヤごと食べる“さやいんげん”でした。

金時豆(アメリカではキドニービーンズに近いのかな)は、かつてよく煮て食べたりしてすっかりなじみのつもりでいましたが、畑では他のインゲン豆と変わらない風情で意外でした。
もっと丈が高くて面倒なイメージでしたが、あれなら畑で作ってみればよかった。乾燥豆にして保存も利くし。

在来種の豆類は大量生産に向かず、わりと小規模の畑地で細々と作り続けられているようですが、北海道で90%近くを作っているそうです。
たしか粟・稗・黍なんかの雑穀類も、岩手あたりでやはり細々と作られていると聞いたことがあります。
こういった在来の貴重な作物や種をどうやって守り継いでいくかということで、そもそも種は保存にも限度があるため、一定量を作り続けなければ絶えてしまいます。
今では各地の施設でそうした貴重種の栽培・保存をしていて、一般の愛好家の支援(各家庭菜園で作り継いでいる)などもあるようです。

いま各地の伝統野菜も見直されてきていますが、ではなぜそういったものが市場から消えていたのでしょうか?

豆類は畑に窒素分を集めるので、他の作物との輪作に欠かせないものだったし、雑穀も米の不作時の救荒作物として一般的だったはずです。
本来土地に合った多様な作物を並行して作るというのが日本の農業の自然なあり方だったはずなのに(お百姓さんですね)、いつしか単一の作物を毎年同じ場所に作り続ける主産地生産が定着して、経済効率に合わない昔ながらの作物は日本中から駆逐されてしまいました。
これだと当然畑が年々荒れていくため、土壌改良のため多肥料投入、農薬散布ということにもつながります。

在来種の豆は日本全国どこでも作れそうなのに、なんだか北海道1ヶ所に追いやられているように見えました。
テレビに出た農家の老夫婦は、かつて米が作れず豆で飢えをしのいできた思い入れもあって、あくまで自家用に大切に作り続けているとのことでした。

住む土地に根を張ったうらやましい生き方です。