2012年6月28日木曜日

人生は暇つぶし

友人が営む秋生農園は今年からいよいよ米作りに乗り出した。

自然農でやりたいという揺るがぬ想いで借りた田んぼは、6年ほど放置されて一面に葦(よし)が生い茂っていた。
一家はひとまず3月に全面草刈りをして、その後自宅の畑にて育苗、いざ田植えという時期になってふたたび田んぼに来てみれば、すっかりもとの草むらに戻っていた。

どういうわけか田んぼは非常に水はけが悪く、葦などの水生植物にとっては理想的な環境。
一旦徹底的に除草・田起こしをしてから稲を育てたほうがいいのだが、「耕さない」方針だけはどうしても譲れないらしい。
今回一部分だけもう一度草刈りして、ほんの一畝か二畝のやれる範囲の田植えとなった。

※一畝は1反の10分の1。1反=300坪(約1,000㎡)

荒れ野に強引に稲を植え込むような、とても「非常識な」田植えを経験させてもらった。
田植え後の風景もとても田んぼには見えない。


一家は「妙なる田んぼ」と称して満足げである。
(「る」が入ると入らないとでずいぶん違ってくるが)


秋生農園は当初農業で食べていくことを目指していたようだが、1年経った頃から「業」の字を取っ払い、あくまで自給のためのいわゆる半農半X、本人曰く「誰でも取り組める農」を目標とするに至った。
自然農も観念的なとらえ方ではなく、無理をしない(→この意味はじつはとても深いと思う)ための彼らなりの方法論のようだ。


米作りと聞くと「自分にはとてもムリ」と腰が引けていたが、こんなに気楽に取り組めるものかと新鮮な驚きである。
見ているかぎりでは、どうやらコツは人づきあいのようだ。
縁あって田んぼを借り、縁あって指導を受け、挫けそうなところにまたまた縁あって勇気をもらい…。
頼りがいのある面々に囲まれての何とはなしの安心感…
「なんとかなるかも?」


そしてあまり期待をしていない。
今年はひとまず来年の種が採れたら、なんて言っている。


ようするに「遊んでいる」。


「人生は壮大な暇つぶし」

知人の言。
誰も「こうせよ」なんて言ってない。


とは言え、彼らは彼らなりに、けっして遊んでなんかないのだろう。
やれ芽が出ない、いのししにやられる、にわとりが畑をつつくと、結構クヨクヨと悩んでいる。
そのドタバタぶりがなんとも愛おしい。

彼らは日々“せいいっぱい”遊んでいるのだ。

2012年5月13日日曜日

力を抜いて“降りていく”覚悟

昨年末の投稿にて、映画“幸せの経済学”の中の最も印象的なエピソードとして、リーマンショック後のデトロイトのありようについて書いた。
それまで自動車産業で食べてきた地元の人々は、ある日突然何もかも消えた土地に放り出され、今度はまさに「食べていく」ために自ら地面を耕し種を蒔き始めた。
そして誰かが足りなければ分けあいながら、地域の仲間が皆でなんとか食いつないでいけるように支えあったという。


周防大島にも似たような話があった。

『大往生の島』

自分はまだまだ大島を知らず、こうした本などから島に接近しつつある段階なので、以下あくまで本からの引用である。
(発行年1997年12月なので、すでに15年以上経過している。この本に登場する高齢の方々の何人かはすでに亡くなられたことだろうが、ここに描かれた島の営みは今も続いていると思われる)

周防大島では高度成長期以降、外に仕事を求めて若い島民たちがどんどん島を去っていく中で、高齢者ばかりが島に取り残され、気づけば「お年寄りがお年寄りを支えて」なんとか踏ん張っているような状況になってしまった。
それでも自然の恵みによって本来島民が十分自足できる中で、お金をめぐって無闇に競い合うようなこともなく、誰もが歳をとっても自助を基本としつつ、お互いを助けあうありようがごく自然に守られてきた。

いわば島の「あたりまえ」な営みである。


デトロイトでは危機的状況に陥ってはじめて、地域がそのあり方に立ち帰ったということだと思う。
(それも自然発生的にそうなったらしい。現在の彼らにそうした過去の生活の記憶が残っているとは思えない。非常にハッピーな話のようだがごく一部に見られたケースであろう。とはいえインスピレーションを感じさせるエピソードではある)


それでは再び日本に戻って、全国各地の原発立地地域はどうだろうか?
いきなり話が飛ぶが、原発マネーでがんじがらめになった地域が今さらこんなシンプルな生き方に戻れるとはとても思えない。
(…いわんや原発自体が吹っ飛んだ地域をや…)

実は周防大島のごく近隣に、今まさにこの状態になりかかっている(すでになってしまった)地域がある。
福島の事故後、当地の上関原発計画は工事中断状態ではあるが、地域はすでにaddictiveである。
そしてなんとも象徴的だが、これに30年以上も体を張って反対運動を続けているのが、周防大島以上に高齢化の進んだ祝島(いわいしま)という土地なのだ。

祝(ほうり)の島

島本来の営みの危機を感じた島民たちが、いわば皮膚感覚で行動し続けている。
映画に描かれた抗議活動の様子は土地柄が滲み出て一見ユーモラスだが、自然体の強靭さといったようなものを確かにとらえている。

祝島の産品@アースデイ瀬戸内 

祝島も周防大島もほんとうに自然体の島だと思う。
放っておかれれば島の人々は自分たちで何とかやっていけるし、日々の生活に十分満足しているのだと思う。
さほど離島でもないせいか、あまり来る者も拒まないようである。

「ただわしらの邪魔はせんといてほしい、いらん世話は焼いてくれるな」


問われているのはこちら外側のありようだ。
島を知るにつけ、われわれ病んだ都会人自身の自我の危機が突きつけられる。
「もう限界じゃろう?どこまで続くんかのう?」

本を読んで、映画を見て、まだ痛みを感じられるうちに“降りていく”ことができるか?
肩の力を抜くことを覚え、なるべく早く降りていく覚悟を決めないといけない。

2012年4月17日火曜日

島の伝統に触れる

先日、周防大島の“石風呂”(いしぶろ)を体験した。
石風呂とは、「石を積み上げたり、岩盤に穴をうがったりして造った室の中で、薪などを燃やして燃え残りをかき出し、海水を含ませた海藻や薬草を敷き、その中で温まる入浴施設」(地家室<じかむろ>石風呂伝承会資料より)。

島を車で走っていると、所々この“石風呂”を見かけるが、古代の遺跡か文化財だろうとあまり気に留めていなかった。
外観からして、わずかに「かつて入り口だった」らしき穴が形ばかり残してあるようにしか見えなかった。
ところが体験会に参加すると、そのままあの小さな穴から人が出入りするというではないか。
熾きをかき出す伝承会の会長さん

聞けば中には7~8人は入るという。
入り口を極力小さくして、内部の熱が逃げないようにしてあるのだろう。
あとで入ったときは、さらに口を外から塞がれ、恐ろしい感じだった。





体験会の日の早朝から、この風呂の中に薪をくべて数時間燃やし、熾き(おき=燃え残り)をかき出してから、島でとれる各種海藻・薬草を敷きつめ、上からムシロを敷いて入る。
この準備段階が何より大変である。
風呂に入る前にこのひと仕事で大汗をかくことになる。
今回はわれわれ参加者のために、その過程の一部を実演していただいた。


なにかの料理の仕度かと思われたが…
ホンダワラアラメといった海藻、菖蒲(しょうぶ)蓬(ヨモギ)クスノキの葉ヤブツバキなどがコンテナ一杯用意されていた。
海藻にはそれ自体の成分のほか海水の塩分も含んでいるので、これらが蒸気とともに体に入り「塩で身を清める」ことになるらしい。
その他薬草類も含めて疲労回復保温効果などがある。

石風呂はいわば古代日本のサウナと言えるが、サウナの発祥地フィンランドでも、サウナの中でやはり菖蒲のような草で体を叩くという習慣がある。


気候風土がまったく違う土地どうしで似たようなシステム・習慣があるというのもおもしろい。

周防大島にはかつて40近くの石風呂があったという。
発祥は約800年前。ここ地家室の石風呂も約400年前からあったらしい。
大島に限らず、石風呂は瀬戸内各地に普及したものらしいが、ここ大島だけでこれだけの数の石風呂があったというのも、当時石工が多く、また各地にそれなりの規模の集落が存在していたということだ。
ほんの70~80年前くらいまでは家風呂も少なく、銭湯がわりに使われていたらしい。

そして地域コミュニティの大事な場としてしっかり機能していたのだと思う。
じっさい、中に入って参加者どうし語らうのはとても楽しかった。
当時であれば、地域の皆が体を使ったしんどい仕事のあと、ともに語り合いながら心身共に癒されていったことが偲ばれる。

こういうなにげない「いいもの」がしっかり残っているのがこの島の魅力だ。
それも伝承会の方々は皆ボランティアである。
一応参加費は取るが、石風呂の維持管理、周辺施設の整備等に当てられてほとんど残らないと言う。
われわれのような外の客が面白がって来るのだから(当日の参加者は約50名、参加費500円)、「経営」として成り立たせたらいいのにと余計なことを考えてしまうが、そんなつもりはないらしい。
続く限り続けて、来た人に楽しんでもらえたらそれだけでいいと。

ここにもこの島の暮らしそのもの、自助と地域の支えあいの伝統を感じる。
それがここの本来の「経済」の仕組みだったのかもしれない。
その継承者のお一人と期せずしてお会いして話ができたというのは貴重な経験だったが、これが少しづつ確実に失われていく寂しさも感じずにはいられない。

2012年3月29日木曜日

土地に根を下ろした生活

まだ自分が住んでもいない周防大島という土地に淡い憧れを抱いて、昨年来ずっと動き続けてきた。

自分はこの土地にとって完全によそ者で口出しするような立場ではないが、それでもよそ者なりの接し方でここで何かできないかを探っている。
ここには、われわれよそ者の目にはっきりとひとつの確実な価値として映るなにものかがある。
それは都市に暮らすわれわれがすでに失ってしまったなにかで、大島の人たちにとってそれはごくふつうの、なんということもない日常の暮らしの一端なのだが、何かと引き換えにそれを失ったわれわれには、もうそれを元の形で取り戻すことはできない。

たぶん自分がこのブログで振り返ってきた15年間ずっと追い求めてきたものがそれで、あちらこちらで自分流にちょこちょこと土いじりをしながらヴァーチャルに接近してきたにすぎない。

自分には生まれてこの方、根っこを下ろす土地というものがなく、都会の片隅でふわふわと生きてきた。
だからそういう本来的なシンプルな暮らしに憧れ、勝手な想像で余分な言葉ばかりで語ろうとする。


最近ファンになっている、とある地方にお住まいの方のブログはけっして多くを語らず、1枚の写真と数行の言葉でご自身の土地の四季の営みをみごとに表現している。

かぶとびより


私のような根無し草からはけっして出ようもない、住む土地に根ざしたたしかな言葉がそこにはある。

でも、われわれ根無し草の言葉で私は私なりにあの土地と接してみたいのだ。

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2012年2月22日水曜日

地域に“あるもの”をいかに掘り出していくか

周防大島という場所をどうにか活性化したいという思いがあるが、実際目を向けてみると、そこにあるのは温暖な気候と四周を海に囲まれた自然の恵みに尽きる。

まずは山口県一の生産量の“みかんの島”で知られるが、後継者難が問題。
それでもミカン農家は結構知恵を絞って新商品の開発等、さまざま工夫しているようだ。

次に海産物だが、じつは瀬戸内のイリコ(煮干し)の商品価値が高いということを最近知った。
近年日本の森が荒れ、海に流れ込む栄養素が欠乏しているらしいが、内海である瀬戸内は栄養分が逃げずにプールされるかたちで残るため、魚介類の栄養価が高いとのこと。
広島の牡蠣もおそらくこの恩恵を受けているのだろう。

イリコはいい出汁(だし)が出て、丸ごと食べられる(頭もワタも取る必要なし)、カルシウム等の微量栄養素のかたまりだが、どういうわけだかマイナーな感じがしている。
わが家でも、これまでこんなに近くに豊富にあるのに、ほとんど使っていなかった。
見直していざ使ってみれば面倒なことはまったくない。
おかげさまで現在体調もいい。
上物はそれなりに値が張るが、他にかける金を削って回す価値は十分あると思っている。


一昨日、NHKの“プロフェッショナル”という番組で、高知に住むデザイナーが農水産品のラベルや意匠を手がけて、すごい付加価値を生み出しているのを見た。
彼には日本の素晴らしい風景を守っていきたいという思いがあり、そのため一次産業をどうにか存続させたいというビジョンから、仕事をほぼこの方向に特化させている。


デザインの力はすごいなと思ったが、その仕事のベースには丹念な依頼先の調査・研究がある。
そして自分自身がよくよく作り手の姿勢や商品に納得・共鳴したうえで、ようやく仕事に取り組むのだ。
その仕事は作り手との共同作業である。


現在、周防大島の産物をアピールする試みとして、毎月一回“海の市”という言わば大島版ファーマーズマーケットが開かれている。
まだ一度だけしか見ていないが、やはり新鮮な海産物をはじめとした素朴な地元の食の展示場であった。
残念ながら来場客はまだ地元住民主体のようだ。
これからいかに島の外部から人を集められるかが存続のカギとなろう。

情報発信力が問われるところだが、いかなる情報を発信していくかというところで、やはりこのデザイン力なのではないか。
大島の食材の確かさを認めたうえで、決して奇を衒わない付加価値をじょうずにアピールすること。
そのためには大島自体、瀬戸内全体の価値にまで視野を広げた地域の食としての認識が大切である。
件のデザイナー氏のように、地域の自然・景観・暮らしを守りたいという大きなビジョンが求められる。

微力だが、自分も島の全体像を意識した、島に“あるもの”の開拓に一役買いたいと願う。

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2012年2月8日水曜日

とある地域の物語

昨夏以降、足繁く通っている周防大島の一地域がある。


島への橋を渡ってから30分、奥まった場所にひっそりあるのが和田の集落。
このあたりは地形上平地が少なく、米作りには適していない。
島の名物のミカン畑はここにもあるが、それ以外これといって特別なものがあるわけでもない。
(自分はまだまだ勉強不足なので何かあるのかもしれない)
それでも地域の人たちはミカンや漁業でなんとかやってきたのだろう。
この周防大島全体が昔から苦労を重ねてきた土地で、移民の島としても知られている。

そんな和田の人たちが担い手不足の地域の将来に不安を抱き、皆でなんとかしようと行動を起こした。
まずはワークミーティングをスタートさせ、いくつかのグループを作って、山と海の再生活動観光特産品作り移住促進等に取り組み始めた。

同時にホームページを立ち上げ情報発信も始める。


そして棚田保全活動支援事業の対象として、耕作放棄で荒廃した段々畑をモデル的に復元する試みもなされた。
牛二頭を借りて放牧し、約半月かけてきれいに草を食べてもらった。(山口型放牧)
牛たちが風呂桶に溜めた水を飲みながら順々に棚田を上がって草を平らげていく様子が日々サイトで報告され、(牛たちに)感心しながら見守っていた。

また別の場所では地域外からのボランティアも募って人海戦術で一斉に草刈り。

急斜面にこれから何を植える?

年も暮れる頃、移住希望者を集めて“空き家見学会”が開かれる。(参加者10名私も含む)
地域の空き家(約30軒)の持ち主に呼びかけて7軒の貸家候補が出て、皆で町巡りをしながら見て回った。

にゃるほど。

そのあと、牛たちがきれいにしてくれた棚田にて皆でタマネギの苗植えを体験。

老若男女多彩な面々

収穫時期の5月頃にふたたび皆が集い、こんどは初夏の和田を知ることになるのだろう。


年も明け、今月1日にこれまでの活動内容の報告会が開かれたので知人を誘って出席。
地域のまったり感そのままに話し合いが進む。
棚田を今後どうするか。
「菜の花植えりゃええが」
「わしゃあ、はあ、梅の木植えて子どもらーに梅もがしゃあええ思うちょるで」
「皇帝ダリアいうんがあるじゃろう。あれえ植えちゃろうか思いよる」
木や作物の話になると熱が入る。
ではそれらをどう和田の地域起こしに結びつけていくのか、のんびりムードに聞いているこちらはやや歯痒さを禁じえない。

後日、同席した知人からのメールにあのまったりした会話の一部が再現されており(上記会話内容はその雰囲気を私なりに再現)、はっと気づく。

「これでいいのだ」

われわれ他所の者が、この愛すべき一地域をなんとかしたいと気負ってみたところで、彼らには彼らなりのペースがある。
むしろあのまったり感をこそ大事にしながら、われわれがそれをじょうずに外部に伝えていけばいいのだ。
都会の人間が求めている安らぎ、つながりがじいちゃんたちの何げない会話の中に息づいている。

この和田の物語を少しずつ知ってもらいながら、こんどはその再生の物語に他所の人々があらたに加わっていく。

けっして目新しい話でもないが、ここは今それが始まったばかりだ。

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2012年2月6日月曜日

弱者の視点

映画“幸せの経済学”自主上映会をわが地域にて開催することになった。

全国各地でさまざまな運営主体によって、さまざなスタイルで上映会が開かれている。
われわれも自分たちの地域に相応しい上映会のカタチを探っていく必要がある。

私が上映会の場に選んだのは山口県の周防大島

島の地形上、米はあまりとれないが、瀬戸内の温暖な気候と山の斜面を活かしたみかん栽培が盛んな他、もちろん周囲をきれいな海で囲まれ鯛やメバル、アジのほか良質なイリコ(煮干し)の産地としても知られている。
47%という超高齢化(全国一)の島だが、お年寄りたちは結構元気にやっている。

島の人たちはコミュニティ存続のために何とかしようという思いは強いが、若年者の雇用の場が圧倒的に少ない。
島の外から私のように魅力を感じて入ってくる者は結構多いのだが、どう生計を立てていくかで皆一様に苦労している。

こういう場所でどんな上映会をやればいいのか。

私なりに考えているのが、
①島の人たちに島の魅力を再認識して自信と誇りを持ってもらいたい
②(新たな生き方を求めている)島の外の人たちに島本来の良さを知ってもらいたい
この二者のマッチングのために、映画のコンセプト(グローバリズムからローカリゼーションへ)をうまく解説して双方に大きな世界観を持ってもらうこと。

まずは価値観を共有して大島で皆が有機的なつながりを持ち、これからの可能性を探っていけばいい。

そしてこれに私自身がどう関わるかというところで、“弱者の視点”を提示してみたいと考えている。
どんな人でも抱えている自分自身の“弱さ”から目をそらさず、また人の弱さにも敏感になることで、互いの弱さを補うような新たなつながりが生まれるのではないか。

大事な点はまず自身の弱さを正直に認めること
そして弱き他者を助けると同時に、自分も誰かに“遠慮なく”助けてもらうこと。

従来のように強さを基準とすると、強い順の序列ができるばかりで一方向の流れしか生まれない。
弱者を助ける必要が生じたときはより強いものがサポートするが、それもまた一方的な援助でしかなく、強者-弱者の関係性は揺るぎないため相互の隔たりは決して埋まることがない。

弱肉強食は自然の習いだが、そのままでは人間にのみ与えられた可能性を閉じてしまっている。

それが想像力

本来人間は自然の中ではとても弱い存在だったが、知恵によってここまで栄えてきた。
そしていつのまにか自分たちが一番強いと思い込んでしまった挙句の果てが去年の事故だ。
思い上がりがすべてに歪みを起こしているとしか思えない。


自分は弱いと感じている人は無理せず「助けてくれ!」と叫んだほうがいい。
たぶん誰かが助けてくれるはずだし、他人を助けることで自らも救われると感じる感性が人間にはあるのだ。

もう一度人間が正しく想像力を働かせてなんとかする可能性に賭けてみたい。

ひとまず私自身はすでに“弱者”宣言をした。
あとはどこまで人を助けられるか。


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