友人が営む秋生農園 は今年からいよいよ米作りに乗り出した。
自然農でやりたいという揺るがぬ想いで借りた田んぼは、6年ほど放置されて一面に葦(よし)が生い茂っていた。
一家はひとまず3月に全面草刈りをして、その後自宅の畑にて育苗、いざ田植えという時期になってふたたび田んぼに来てみれば、すっかりもとの草むらに戻っていた。
どういうわけか田んぼは非常に水はけが悪く、葦などの水生植物にとっては理想的な環境。
一旦徹底的に除草・田起こしをしてから稲を育てたほうがいいのだが、「耕さない」方針だけはどうしても譲れないらしい。
今回一部分だけもう一度草刈りして、ほんの一畝か二畝のやれる範囲の田植えとなった。
※一畝は1反の10分の1。1反=300坪(約1,000㎡)
荒れ野に強引に稲を植え込むような、とても「非常識な」田植えを経験させてもらった。
田植え後の風景もとても田んぼには見えない。
一家は「妙なる田んぼ」と称して満足げである。
(「る」が入ると入らないとでずいぶん違ってくるが)
自然農も観念的なとらえ方ではなく、無理をしない(→この意味はじつはとても深いと思う)ための彼らなりの方法論のようだ。
米作りと聞くと「自分にはとてもムリ」と腰が引けていたが、こんなに気楽に取り組めるものかと新鮮な驚きである。
見ているかぎりでは、どうやらコツは人づきあいのようだ。
縁あって田んぼを借り、縁あって指導を受け、挫けそうなところにまたまた縁あって勇気をもらい…。
頼りがいのある面々に囲まれての何とはなしの安心感…
「なんとかなるかも?」
そしてあまり期待をしていない。
今年はひとまず来年の種が採れたら、なんて言っている。
ようするに「遊んでいる」。
「人生は壮大な暇つぶし」
知人の言。
誰も「こうせよ」なんて言ってない。
とは言え、彼らは彼らなりに、けっして遊んでなんかないのだろう。
やれ芽が出ない、いのししにやられる、にわとりが畑をつつくと、結構クヨクヨと悩んでいる。
そのドタバタぶりがなんとも愛おしい。
彼らは日々“せいいっぱい”遊んでいるのだ。
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