2011年12月25日日曜日

自分なりの総括④

チェルノブイリ周辺の村の人たちが強制移住をかいくぐって、あえて汚染されたもとの土地に帰ってきてしまったという話。
暮らしとは何なのか、とても考えさせられる。

移住先でストレスを抱えたというのも、新しい土地に馴染めないというだけでなく、ふるさとを離れることによるアイデンティティの喪失が大きいのではないか。
若い人はまだしも、長年同じ土地に暮らしてきた老人たちにはそこでの時間の蓄積がある。
記憶、思い出はそれを経験した場所というのが大きなファクターだから、お年寄りたちは村からなかなか離れたがらない。
加えてそこで土に触れ、土地の恵みに生かされてきたと感じている人々にとっては、土地そのものがアイデンティティの核になっているのだと思う。

住む土地にしっかりと根を張った暮らしというものはそう簡単に揺るがない。
食を育む土さえあれば、嵐が来ようが洪水に飲まれようが、一旦は荒らされた土地も少しずつもとの状態に戻してやり直すことができた。
大きな時間の中では“何とかなる”ような安心感に支えられて暮らしが営まれてきた。




今度ばかりは“何とかならない”事態なのだと言われてもふつうの人間にはピンと来ない。
その毒は目に見えないし臭いもしないし、“すぐには体に異常も起こりません”なんて曖昧なことを言う。

土が汚染されているので剥がして隔離するのだそうだ。
山は手のつけようもないのでそのままにして人があまり近づかないようにする。
いい土ができる山の落ち葉も使ってはいけないらしい。

人間も自然の一部のはずだが、その人間の行為が自然とかけ離れていき、その結果としてある地域が人為的に隔絶せざるをえない場所となる。
人間の働きかけによって、他でもないその人間の歴史が終わってしまう土地が生まれる。


想像を絶する事態。
しようがないのか。


でも、想像できるのは人間だけだ。

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