2011年12月19日月曜日

自分なりの総括③

福島の米から相次いで基準値以上のセシウムが検出され、せっかくの1年の成果も出荷停止となっていると聞く。

農家は土地に根を下ろし、そこで作物を作ることは当たり前の行為だと思う。
だからこの春、はたしてこの地にいつものように種を蒔いてよいのかどうか逡巡したであろう地元の農家も、とりあえずはいつもどおりにやってみたのだろう。
結果いつもと何ら変わりなく見えた新米も、検査器の数値のかぎりでは出荷してはいけないということになった。
当たり前にやったことが数字ひとつでパーになった。

それでは収入もないので何とかしろというだけの話ではないと思う。
もしかするとその土地ではもう作物は作れないのかもしれない。
そのとき農家はいったいどうしたらいいのか。

よその土地へ移って新たに始めればいいじゃないかなどと単純に考えてはいけない。
そう簡単な話ではないだろう。
土地への愛着ということもあるかもしれない。

思うに農業というのは土地土地の気候風土にしたがった適地適作というものがあり、土地ごとの慣習もあり、たとえよそでの経験があったとしても、そうやすやすと新たな土地に溶け込んでやっていけるものでもないんじゃないか。
それもかなりの数の農家が散り散りになって、それぞれの新たな地域で再スタートを切るというのはかなり困難な話だと思う。

それではムラごとそっくり別の場所へ移しましょう、皆さんそこで今までどおりやっていただいて構いません、なんて話になるとすればまさに都会の土を知らない人間が考えそうなことで(都会人の自分が言ってもあまり説得力ないが)、ある土地の営みは個別固有のもので相互に交換の利くようなものではない。


チェルノブイリ周辺の村から移動させられた人たちは、逆に移った先でストレスを抱えたりして、汚染を承知で帰ってきてしてしまった例も多いと聞く。
明らかに人体に害があるとわかっていながら、かろうじて自分たちが食べるために作り、作るためにそこに住む。

それが何なのか知りたいと思う。

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