2011年5月24日火曜日

神の仕業

今回の震災の賠償問題で、責任逃れのためにこんな発言をした人がいる。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110520-00000050-jij-pol

最高の人知を働かせ万全の津波対策を講じたが、図らずも「神による異常な自然現象」のためにこのたびの原発事故が生じたので、電力会社には責任がないというのである。

原子力損害賠償法では、たしかに「ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によって生じたものであるときは、この限りでない」(第3条)として免責条項を定めている。

これについて予見可能性の点からも今回は人災であり、かならずしもこの条項には該当しない旨の批判が出ている。


現実の賠償問題なので法的判断の問題なのだろうが、これは倫理上は人災であることをけっして免れない。
つまり原子力というものを、人間の知力によって制御可能なものとして解放した時点で、人間には絶対の安全責任というものが生じたはずである。


自然という神と対決して原子力利用を進める以上、人間だけがすべての責任を負うことになる。

それがいざ誰の責任かとなったときに、「あんな天災に遭ったらもう我々の手には負えません。だからすべて神様の仕業なのです」と平気で言い切ったのだ。
無神論者というのは都合の悪い時には神を利用することもあるのだ。

まあ、こういう人たちでなけりゃ、原発推進なんてできなかったのかもしれないが。

2011年5月18日水曜日

けっして浄化されない

原発事故が起きた福島県の隣県で、家庭菜園で自然農法を志す一市民が健気な努力をしている。
http://youtu.be/taYvTIcZuu8

コメントなどを見ても、やはり放射性物質は完全な除去が不可能であることがわかる。

これまではたとえ化学物質による汚染であっても、いずれ自然に還ることで何とか解決が図れた。
(とはいえ生物濃縮等で長期間残留し相当の被害をもたらすが)
とりあえず水に流すというやり方で何とか処理してきた。

ところが今回は水に流すと下水が汚染され、やがては海に流れて海洋汚染となる。
だから放射性物質を浴びたものはことごとく隔離され、慎重に保管されるより他に手がない。
気持ちの悪いものが溜まる一方で、そのうち置き場所にも困ることになる。


いくら有機だ、自然農だと言ったって、もうこれにはかなわない。
レベルが違う話だ。
この汚いモノが付いた土はいくら頑張っても、EMだろうがバクテリアだろうが、けっして浄化できない
土を取り去るより他ない。
汚染された表土だけ除去すればいいらしいが、高濃度の放射性物質はまだ浮遊しているので今後も油断できない。
土作りなど空しいことだ。


聞くところによれば東京あたりからの移住者が一番多いのが福島県らしい。
定年退職後、のんびりと田舎で土いじりというところだろうが、もうそれも危なくてできない。

こんなのんきなブログを書くことも馬鹿馬鹿しくてできないだろう。

2011年5月7日土曜日

食中毒事件に思うこと

ひさびさにまた病原性大腸菌による食中毒事件が起きた。

今回は焼肉屋で出された生肉料理のユッケ(→自分は食べたことがない)が原因らしい。

どうやら最近こうした生肉食がちょっとしたブームのようだ。
だが魚の刺身や馬刺しなどを除けば、従来の日本人には牛の肉を生で食べるという習慣はなかったはずだ。
いまは何でも金さえ払えば口に入る世の中だが、食習慣というのはじつはとても保守的だ

事件としては肉の流通過程や提供した焼肉店の衛生管理がもちろん問題視されようが、全体として不慣れな生肉食の“扱い”が軽すぎた感じがしている。

厚労省の生食用肉の衛生基準自体、O‐157の事件をきっかけにして1998年にやっと定まったものである。
生食用肉”の表示も強制ではない。
したがって流通段階での配慮が欠ける危険性が大きい。
その流れで無造作な扱いのまま、今回のような低価格を売りにした外食チェーンでは当然調理の手間を省く(今回はトリミングという、肉の表面を削ぎ落とす作業を省いていた。“もったいない”という理由かららしい~料亭吉兆伊勢の赤福、皆同じことを言う)ので、客は雑な扱いの危険な料理を食べさせられることになる。

われわれ一般消費者はまず値段で商品を吟味できるはずである。
だがデフレの世の中ですっかり勘を失ったせいで、何でもかんでも安けりゃいいと思い込んでしまっている。
とくに口に入るものの場合のリスクの高さには本当に無頓着だ。

有名店の看板を信頼したのかもしれない。
だから事故に遭った人たちは一方的な被害者だろう。

だが食は生命に直結するデリケートな営みだ。

たとえ一食の食事でも。

韓国料理のユッケは韓国の人たちにとっては気候風土に合致したなんらかの必然性のある食べ物かもしれないが、日本人にはまだまだ未開拓の食である。

社会全体が不慣れな、いわばバーチャルな食だ。


つくづく食をナメてはいけないと思う。

2011年5月5日木曜日

正しく絶望できているか

あの地震があってから、もうそろそろ2ヶ月になる。

その前日、3月10日の日付でコンニャクの話など書いている。

震災後しばらくはさすがにショックでのんきに畑の話など書く気にはなれなかったが、いまだにそれは変わらない。

このブログは、15年ほど前に始めた畑のことを自分なりにまとめることで、現在に至る自分の拠り所を確認しておきたいという思いがあったが、たんなる思い出話ではなく、過去のエピソードにも今の自分の有り様が反映している。
(今書けば自然とそうなるだろう)

今回の震災以降、今までのトーンで畑やらの話を書けなくなってしまったのは明らかだ。

もちろん放射能汚染のことだ。
作家の辺見庸氏が震災後に、“絶望する能力”ということを言っていた。
絶望的な現実が明らかなときに、それから目をそらさずに正視することができるか、それに耐えてなお前に進むことができるか、といった意味だと思う。

今後の私たちは、まず正しく絶望することから始めなければならない。
(…かなり辺見調)