2012年11月13日火曜日

野菜を売ってみた

関係する団体で実験的な市をやるというので、「なんちゃって」出店してみた。
継続性の全く見込めない思いつき出店なので客の反応がどうかという懸念はあったが、出す野菜自体には思いっきり自信があり、わが自然農野菜たちを地域の方々に問うてみたい思いもあった。
出品したのは、水菜・高菜・カブ・大根・小松菜。(以上、自信のある順)

葉物はともかく、大根やカブはまだ未熟な間引き菜だったので、客はやはり引いていた。
こちらとしては間引き菜の味をアピールしたかったが、田舎では野菜のもらいものも多いのでさして珍しがられもせず、自然農の“濃い味”をしきりに訴えてもどうやらあまり響いていなかった。

とはいえ、買ってくれた方々に共通して、各人の興味関心に応じて皆それなりの会話のもとに売り買いがなされたことは嬉しかった。
わが野菜たちが立派なコミュニケーションツールたり得たことは、ある意味わが意を得たりである。

 
 
自分としては今さら自然農の伝道師や宣伝役になるつもりも毛頭なく、気楽に取り組める半農半Xの手法と考えているに過ぎず(~真剣に取り組まれている方には大変失礼ですが)、むしろこういうふうに野菜を通してつながりが広がることこそわが農園の本意である。
 
固定種からの種取りのことなど、農園の栽培上のメインテーマについてももちろん理解を得たい気持ちはあるが、それ以上に農園と野菜を通じて人と人とが出会い何かが生まれること。
 
 
今回の経験で市の可能性に大いに気づかされた。
なんでもやってみるもんである。
 


2012年11月5日月曜日

間引き菜にこそ味がある

自家菜園の醍醐味はやはり間引きの菜っ葉が食べられることだと思う。
 
ここのところ連日、生育好調の菜っ葉たちの間引きに追われているが、さいわい民泊の生徒たちの人海戦術に助けられている。
摘みたての間引き菜をその日の晩飯で味わってもらえて嬉しい。
 
 
市販の野菜は、おそらく値の付く株を揃えるために容赦なく育ち遅れた株をはじく感じなのだと思うが、こちらはむしろ早く育って立派な株の方から間引いては食べている。
むしろそのほうが適度な大きさのものを無駄なく食べられるので好都合なのだ。
なかなか畑に来られないメンバーにも間引き菜を届けているが、自分としてはれっきとした“収穫”のつもりだ。
 


葉っぱを食べる水菜や小松菜、高菜などは納得してもらえるが、大根やカブとなると収穫とは言えないかもしれない。
ところがこれがむしろ大根葉やカブ葉のほうが根っこより味があるくらいなのだ。
まだ根っこよりも葉の方に栄養分がかたよっているからなのだろうか。
ともかくこれは市販の大根やカブではけっしてわからない“事実”である。
大根は根っこだけじゃなくて、ちゃんと葉っぱにも“大根葉”の味があることをもっとたくさんの人に知ってもらいたい。(もちろんカブに同じく)


菜園を訪れ間引きを手伝ってくれる彼らは幸いである。

2012年10月17日水曜日

来んさい農園

農園のネーミングはわりとあっさり決まった。

「金菜(=来んさい)農園」

こちらの方言で「おいでなさい」の意味の「来んさい(きんさい)」。
誰でも大歓迎の開放的な場所。


ここ周防大島では数年前から修学旅行生の民泊受け入れが盛んで、メンバー宅に訪れた民泊の中学生女子たちが種まきを手伝ってくれた。
農作業体験ということだったが、こちらも素人、大島の自然の中でのびのび遊んでもらえただけで十分。

メンバーの若いお母さんはいつも1歳の赤ちゃんを連れて農園にやってくる。

9月に植えた秋ジャガ


もうひとりの坊やもいっしょにほうれん草の種まき(のつもり)

ウワサを聞きつけて見学のご婦人方には、ちょうどいい具合に間引き作業が与えられ。

中学生たちが撒いた種もきれいに生えそろい…

こちらも一緒に作業の合間に冗談交じりに口にした間引き菜、しっかりそれぞれの野菜の味がしたのには新鮮な感動を覚えた。


思わぬ展開の共同農園、期待以上の“収穫”が見込めそうだ。


2012年9月12日水曜日

まずは秋ジャガ

このたび借りることになった畑はあまりに広大なため近隣の仲間たちに次々声をかけている。
皆この春以来何度かご縁を重ねてとてもフィーリングがあう面々である。


畑を借りて早々に秋冬野菜の植えどきが気にかかり、やや慌てて秋ジャガの種芋を園芸店で手に入れた。
種は原則すべて固定種とする予定だが、秋生農園さんもジャガイモは例外のようなのでこちらも倣った。

にしゆたか(メークイーン系、粘質) 4キロ
アンデス(赤ジャガ、粉質) 1.5キロ

以上、ひと家族分にはやや多め、皆(今回総勢6家族でスタート)でやるにはかなり少なめの量だが、とりあえずこれで始めることにした。

植えつけ日を決め、前日に大きめのやつを半分に切って乾燥させておく。
当日は4人が集まり、まずは空いた場所にウネを作る。ジャガイモは水はけをよくするため、やや高ウネとした。

 
自然農は元肥など入れずいきなり植えつける。
ひと穴ひと穴ていねいに種芋を植えつけていく。
切った芋は切り口から芋自体の水分によって腐ることもあるので、やや斜めに傾けて埋めるなど非常に細かい配慮も。


最後は刈った草や蔓を上からかぶせてなるべく乾燥を防ぐ。


この夏はほんとうに雨が降らず、畑の土も砂のようにカラカラ。
翌々日、ほんとうに久々の雨が降ってくれたがその後また晴天つづき。
発芽できるのか心配で、今日の夕方からしばらく朝夕水やりすることにした。


今回自然農の心得がある一人と作業をしたが、性格もあるかもしれぬが非常にゆったりしたペースでひとつひとつをていねいに進めているように見えた。
畑に入ったときは土の質と草の種類などをていねいに観察し、ジャガ畝には豆類らしき草を残しさえした。
こちらが頑張っているように見えるとまあ休めと言う。

これまでひとりで畑と向きあってきたが、こうして人と触れあいながらの畑もよさそうだ。
ひとりでは見過ごしてしてしまうようなことも、誰かの思わぬリアクションで学びにつながるような気がする。
もともとナチュラルな雰囲気の面々だが、畑ではさらに“素”に戻り、いきいきと輝いてくれるような気がしている。

2012年9月2日日曜日

再始動

このブログを始めたのは、菜園を中断しこれからの方向性を探っている時期だった。
書いてきた内容は過去の回想と反芻、記憶の整理の中から生まれてきた思索の展開。(拙い内容だが…)
そのうち土いじりとはまったく?かけ離れた展開になっていったが、思いつきのタイトル「東京を離れて」に自分自身が触発され、自分の“根っこ”を求める旅の様相を呈してきた。

そんな思索の旅も、ご縁のつながりでひとまず着地点を見出すことができたようである。
7月に移住を果たしたあこがれの周防大島の地にけっこう広大な一区画を借りられることになった。
土地は大島としてはごく当たり前にミカン畑だったらしいが、耕作困難となり木を撤去後約10年放置されており、こちらにとっては非常に理想的な状態でバトンタッチされたわけである。

重機で刈った雑草の山

敷地内には鬼太郎が住んでそうな廃屋も

そこでこの際思いきって自然農に挑んでみたいと思う。
幸いまわりにはその道の諸先輩方が揃っているので、彼らも巻き込んで実験農場にしてみたい。

自然農の畑からのおすそわけ
自然農一家のその後
秋生農園訪問
人生は暇つぶし

どこまで人の手を入れずにガマンできるか、ある意味ゼロからのスタートになる。

それなりの規模なので未経験の果樹などにも挑戦してみよう。
梅やあんず、ブルーベリー、それから大島で最近注目され始めたオリーブなど。

そして何より、現在築きつつある地域のコミュニティの一拠点となれば面白いと思っている。
コミュニティ作りにもいろいろあると思うが、自分はやはり食を基本としたつながりが第一と考えているので、この畑で長年のテーマである地域自給への第一歩をまず身近な仲間うちからじわじわと広めていきたい。
自然農のセオリーには反するかもしれぬが、生ゴミ処理なども大らかに受け入れていければ。


これまでひとり淡々と畑に向き合ってきた経験の何がしかが、これからここで活きてくれれば幸いである。
15年(正確には16年になる)、ようやく何かが動き始めた。

2012年6月28日木曜日

人生は暇つぶし

友人が営む秋生農園は今年からいよいよ米作りに乗り出した。

自然農でやりたいという揺るがぬ想いで借りた田んぼは、6年ほど放置されて一面に葦(よし)が生い茂っていた。
一家はひとまず3月に全面草刈りをして、その後自宅の畑にて育苗、いざ田植えという時期になってふたたび田んぼに来てみれば、すっかりもとの草むらに戻っていた。

どういうわけか田んぼは非常に水はけが悪く、葦などの水生植物にとっては理想的な環境。
一旦徹底的に除草・田起こしをしてから稲を育てたほうがいいのだが、「耕さない」方針だけはどうしても譲れないらしい。
今回一部分だけもう一度草刈りして、ほんの一畝か二畝のやれる範囲の田植えとなった。

※一畝は1反の10分の1。1反=300坪(約1,000㎡)

荒れ野に強引に稲を植え込むような、とても「非常識な」田植えを経験させてもらった。
田植え後の風景もとても田んぼには見えない。


一家は「妙なる田んぼ」と称して満足げである。
(「る」が入ると入らないとでずいぶん違ってくるが)


秋生農園は当初農業で食べていくことを目指していたようだが、1年経った頃から「業」の字を取っ払い、あくまで自給のためのいわゆる半農半X、本人曰く「誰でも取り組める農」を目標とするに至った。
自然農も観念的なとらえ方ではなく、無理をしない(→この意味はじつはとても深いと思う)ための彼らなりの方法論のようだ。


米作りと聞くと「自分にはとてもムリ」と腰が引けていたが、こんなに気楽に取り組めるものかと新鮮な驚きである。
見ているかぎりでは、どうやらコツは人づきあいのようだ。
縁あって田んぼを借り、縁あって指導を受け、挫けそうなところにまたまた縁あって勇気をもらい…。
頼りがいのある面々に囲まれての何とはなしの安心感…
「なんとかなるかも?」


そしてあまり期待をしていない。
今年はひとまず来年の種が採れたら、なんて言っている。


ようするに「遊んでいる」。


「人生は壮大な暇つぶし」

知人の言。
誰も「こうせよ」なんて言ってない。


とは言え、彼らは彼らなりに、けっして遊んでなんかないのだろう。
やれ芽が出ない、いのししにやられる、にわとりが畑をつつくと、結構クヨクヨと悩んでいる。
そのドタバタぶりがなんとも愛おしい。

彼らは日々“せいいっぱい”遊んでいるのだ。

2012年5月13日日曜日

力を抜いて“降りていく”覚悟

昨年末の投稿にて、映画“幸せの経済学”の中の最も印象的なエピソードとして、リーマンショック後のデトロイトのありようについて書いた。
それまで自動車産業で食べてきた地元の人々は、ある日突然何もかも消えた土地に放り出され、今度はまさに「食べていく」ために自ら地面を耕し種を蒔き始めた。
そして誰かが足りなければ分けあいながら、地域の仲間が皆でなんとか食いつないでいけるように支えあったという。


周防大島にも似たような話があった。

『大往生の島』

自分はまだまだ大島を知らず、こうした本などから島に接近しつつある段階なので、以下あくまで本からの引用である。
(発行年1997年12月なので、すでに15年以上経過している。この本に登場する高齢の方々の何人かはすでに亡くなられたことだろうが、ここに描かれた島の営みは今も続いていると思われる)

周防大島では高度成長期以降、外に仕事を求めて若い島民たちがどんどん島を去っていく中で、高齢者ばかりが島に取り残され、気づけば「お年寄りがお年寄りを支えて」なんとか踏ん張っているような状況になってしまった。
それでも自然の恵みによって本来島民が十分自足できる中で、お金をめぐって無闇に競い合うようなこともなく、誰もが歳をとっても自助を基本としつつ、お互いを助けあうありようがごく自然に守られてきた。

いわば島の「あたりまえ」な営みである。


デトロイトでは危機的状況に陥ってはじめて、地域がそのあり方に立ち帰ったということだと思う。
(それも自然発生的にそうなったらしい。現在の彼らにそうした過去の生活の記憶が残っているとは思えない。非常にハッピーな話のようだがごく一部に見られたケースであろう。とはいえインスピレーションを感じさせるエピソードではある)


それでは再び日本に戻って、全国各地の原発立地地域はどうだろうか?
いきなり話が飛ぶが、原発マネーでがんじがらめになった地域が今さらこんなシンプルな生き方に戻れるとはとても思えない。
(…いわんや原発自体が吹っ飛んだ地域をや…)

実は周防大島のごく近隣に、今まさにこの状態になりかかっている(すでになってしまった)地域がある。
福島の事故後、当地の上関原発計画は工事中断状態ではあるが、地域はすでにaddictiveである。
そしてなんとも象徴的だが、これに30年以上も体を張って反対運動を続けているのが、周防大島以上に高齢化の進んだ祝島(いわいしま)という土地なのだ。

祝(ほうり)の島

島本来の営みの危機を感じた島民たちが、いわば皮膚感覚で行動し続けている。
映画に描かれた抗議活動の様子は土地柄が滲み出て一見ユーモラスだが、自然体の強靭さといったようなものを確かにとらえている。

祝島の産品@アースデイ瀬戸内 

祝島も周防大島もほんとうに自然体の島だと思う。
放っておかれれば島の人々は自分たちで何とかやっていけるし、日々の生活に十分満足しているのだと思う。
さほど離島でもないせいか、あまり来る者も拒まないようである。

「ただわしらの邪魔はせんといてほしい、いらん世話は焼いてくれるな」


問われているのはこちら外側のありようだ。
島を知るにつけ、われわれ病んだ都会人自身の自我の危機が突きつけられる。
「もう限界じゃろう?どこまで続くんかのう?」

本を読んで、映画を見て、まだ痛みを感じられるうちに“降りていく”ことができるか?
肩の力を抜くことを覚え、なるべく早く降りていく覚悟を決めないといけない。